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2010年02月11日

コワイ話 逆さの樵面

私的にはイイ話です。



sage 2005/12/11(日) 20:07:10 ID:CUnu3Rn40
私が生まれる前の話なので、直接見聞きしたことではなく、その点
では私の想像で補ってしまう分もあることを先に申しておきます。
それから地名、人名等は仮名としました。
もったいぶった始め方ですが、この話の終わりには家の戸口に
影が立つこともあるかも知れません・・・


私の生まれた村はつい先日合併によって閉村し、別の名前の町に
生まれ変わりました。
しかし千羽神楽の名は残っています。
室町時代から脈々と続くこの夜神楽は、かつて村の4つの家によって
継承されてきました。
稲には実りを、また山には厳しい寒さをもたらす神々を、歓待し楽し
ませるための舞を踊るのです。
村にある神社を1年間で順繰りに回り、氏子たちが見守る中で夜が更
けるまで舞い続けます。
舞うのは4つの家の太夫と、かつては決まっていたようですが現在で
は1家を除いて家筋の消息が不明となり、若者不足も重なって舞太夫
には誰でもなれるようになっています。
もともと4家に神楽を伝えたのは熊野より落着した日野家であると、
資料にはあります。
当主であった日野草四郎篤矩がそのとき持参したといわれる神楽面が、
のちに村の家々の戸口に影を立たせることになるのです。



837 2/12 sage 2005/12/11(日) 20:09:57 ID:CUnu3Rn40
千羽神楽では素面の舞もありますが、面をつけての舞がほとんどです。
神楽面は舞太夫が人から人外のものへと変わるための装置であり、
衣装を合わせ面をつけた時、それは太夫ではなく鬼神や魔物そのもの
が舞っているものとして認識されます。
そのため、神社の中とはいえ人の領域の内に鬼神を招くための結界
として、はじめに注連縄が張られるのです。
受け継がれてきた古い面には力があり、けして粗末な扱いをしては
ならないとされています。
江戸中期に記された『千羽山譚』には、「特に翁の面は怪力を持ち
他の面と同じ行李に入れていては、他の面を食い破る」という不気味
なことが書かれており、現在も神楽面の中で唯一翁面だけが竹で編
んだ小さな行李に単独で保管されています。
私の父はこの翁面の舞手でしたが、いつもこの面を着けるときだけは
手に汗が浮くと言っていました。

さて、室町時代より500年にも亘って続く千羽神楽ですが、その
長い歴史の中で演目が亡失するということもあったようです。
千羽郷に赴任された役人の古河伝介が記したという『千羽山譚』や、
その他の旧資料に現れる神楽の記述によると、もう舞われなくなっ
ている4つの舞があることがわかります。
このいずれも、面も祭文も残っておらず、資料の挿絵によって衣装が
辛うじてわかるくらいでした。
ことの発端は、この失われた舞が復活する次第よりはじまるのです。


838 3/12 sage 2005/12/11(日) 20:12:06 ID:CUnu3Rn40
大正11年の5月11日、神楽面が出て来たという通報が村役場に
ありました。
高橋家という旧家の土蔵より、幾ばくかの資料とともに2つの神楽
面が発見されたというのです。
高橋家はかつて数代にわたって神楽の座長を務めたといわれており、
何代か前にあとを襲う男児に恵まれなかった折に養子を招き、神楽
からは離れていったようです。
そしてなんらかの理由で次の太夫にこれらの面と舞を伝えることも
ないまま、演目が亡失するという事態に至ったということでした。
さて、面は出て来たものの舞の復活には至りません。
祭文が出てこないのです。
しかし、失われた神楽舞の復活に賭ける気運が高まっていたため、
千羽神楽を興した日野家のルーツである熊野へ人を遣り、近似の舞
から演目を起こすというという計画が持ち上がっていました。
そんなとき、計画を主導していた当時の座長である森本弘明氏が
不思議な夢を見たのです。

弘明氏は消防団の団長も勤めていた人物で、公正で篤実な人柄が
認められていたといわれています。
その彼が神楽が催されたある夜に、舞い疲れて家に帰らず神社の社殿
で一人眠っていたとき、真っ暗な夢が降りてきたと言うのです。
夢で深山の夜を思わせる暗闇の中にひとり佇んでいると、目の前に
篝火がぽっと灯され、白いおもての奇妙な服を着た人物が暗闇の奥
より静々と進んできました。
良く見ると白い顔は神楽面で、高橋家の土蔵より発見された山姫と
呼ばれる面だったのです。
格衣に白い布を羽織り、山姫の面を着けた人物は篝火の前まで進み
出ると、弘明氏に向かってこう言いました。
『これより、山姫の舞を授ける』
そして静かに舞いはじめたのです。


839 4/13 (になりました汗) sage 2005/12/11(日) 20:17:23 ID:CUnu3Rn40
弘明氏はこれはただの夢ではないと直感し、その舞の一挙手一投足を
逃すまいと必死で見ていたそうです。
やがて山姫が舞い終わると、篝火が消え深い闇の帳が下りました。
しかしまだ夢が覚めないのです。
また篝火が灯りました。
こんどは赤く猛々しい鬼神ような面をつけた人物が現れました。
そしてこう言うのです。
『これより、火荒神の舞を授ける』
山姫の舞から一転して激しい舞がはじまりました。そしてその面は
やはり土蔵から見つかった面だったのです。
舞が終わるとふたたび篝火が消え、また灯りました。
こんどは格衣に烏帽子姿の人物が闇の奥より現れました。
面を着けていない素面で、その目じりには深い皺が刻まれた初老の
男でした。
『これより、萩の舞を授ける』
その声を聞いて明弘氏はすべての舞を演じたのがこの人だと悟った
のです。
明弘氏は、舞を見ながら涙を流したと言います。
どの舞も情熱的で、人が舞っているとは思えない神々しい舞でした。

社殿の畳の上で目覚めて、明弘氏はただちに今見た舞を踊りました。
試行錯誤を繰り返し、東の山に陽が射すころには3つの舞を完璧に
この世に蘇らせたといいます。


840 5/13 sage 2005/12/11(日) 20:20:30 ID:CUnu3Rn40
これが失われた3つの舞が千羽神楽に取り戻された事の次第で、未
だに千羽に語り継がれる縁起なのです。
その夜、明弘氏の夢に現れた人物は高橋家の5代前の当主であった
高橋重次郎氏ではないかと言われています。
高橋家の大刀自は当時100に近い歳であったといわれていますが、
明弘氏が披露した舞を見たとき、幼いころに見た曽祖父の舞だと
言って泣き崩れたと伝えられています。

さて、失われた4つの舞のうち3つまでは復活しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』・・・
『千羽山譚』によると残る一つは『樵の舞』とあります。
しかし高橋家の土蔵からはこの舞に使われる樵面が発見されず、
『樵の舞』だけは亡失されたままでした。
樵面は熊野より落着した日野草四郎篤矩が持参した面とされ、
明応七年(1498年)の銘が入っていたと、資料にはあります。
一時期、前述の翁面と同一視されていたこともあったようですが、
翁面には永禄五年(1562年)の銘があり、別の面であると
認識されるようになっています。

時は下って昭和40年。
私の父が舞太夫としての手解きを受けたばかりの頃です。
大正時代に高橋家より面が見つかって以来、役場を中心に各旧家の
協力の下、あれだけ捜索されても発見されなかった樵面が、あっさ
りと出て来たのです。
人々を震え上がらせる呪いとともに・・・


841 6/13 sage 2005/12/11(日) 20:21:06 ID:CUnu3Rn40
当時、在村の建設会社に勤務していた父は職場で「樵面発見」の報
を聞きました。
社長がもともと舞太夫で、父に神楽舞を勧めた本人だったため、早退
を許してもらった父は、さっそく面が見つかったという矢萩集落の
土谷家へと車を走らせました。
もともと山間の千羽でも、特に険しい地形にある矢萩集落は町ほど
露骨ではなかったものの、いわゆる部落差別の対象となるような土地
でした。
父のころにはまだその習慣が残っていて、あまり普段は足を向けたく
ない場所だったといいます。
その集落にある土谷家は、もともと県境の山を越えてやってきた客人
の血筋で、集落では庄屋としての役割を果たしていたようです。
江戸時代から続くといわれるその古い家屋敷に、噂を聞きつけた
幾人かの人が集まっていました。
その家の姑である60年配の女と役場の腕章をつけた男が言い争い
をしており、その間に父は先に来ていた太夫仲間にことのあらましを
教えてもらいました。
どうやら、その日の朝に役場へ匿名の電話が入ったようです。
曰く「樵面を隠している家がある」と。
それは土谷家だ、とだけ言って電話は切られました。
不審な点があるものの、とりあえず教育委員会の職員が土谷家へ向か
い、ことを問いただすと「確かに樵面はある」と認めたのでした。


842 7/13 sage 2005/12/11(日) 20:23:20 ID:CUnu3Rn40
言い争いは平行線だったようですが、とりあえず土谷家側が折れて
父たちを屋敷へあげてくれました。
歴史ある旧家だけあって広い畳敷きの部屋がいくつもあり、長い廊下
を通って、玄関からは最奥にあたる山側の奥座敷の前で止まりました。
どんな秘密の隠し場所に封じ込められていたのだろう、と想像して
いた父は拍子抜けしたといいます。
姑が奥座敷の襖を開けたその向こうに、樵面の黒い顔が見えたのです。
しかしその瞬間、集まった人々の間に「おお」という畏怖にも似た
響きの声が上がりました。
「決して中へは入ってはなりません」と姑は言い、悪いことは言わな
いからこのままお引取りを、と囁いたのです。
明かりもなく暗い座敷の奥から、どす黒い妖気のようなものが廊下
まで漂ってきていたと、父は言います。
締め切られていた奥座敷の暗がりの中、奥の中央に位置する大きな柱
に樵面は掛けられていました。
しかしその顔は天地が逆、つまり逆さまに掛けられているのです。
しかも柱に掛けられていると見えたのは、目が暗がりに慣れてくる
とそうではないことに気づきます。
面の両目の部分が釘で打たれ、柱に深く打ち留められていたのです。
「なんということをするのだ」
と古参の舞太夫が姑に詰め寄るも、教育委員会の職員に抑えられまし
た。
「とにかくあれを外します」と職員が言うと、姑は強い口調で
「目が潰れてもですか」


843 8/13 sage 2005/12/11(日) 20:24:09 ID:CUnu3Rn40
父は耐え難い悪寒に襲われていました。
姑曰く、あの天地を逆さにして釘を目に打たれた面は、強力な呪い
を撒き散らしていると。そしてこの座敷に上がった人間は、ことごと
く失明するのだと言うのです。
「バカバカしい」と言って座敷に入ろうとする者はいませんでした。
古い神楽面には力があると、信じているというより、理解している
のです。だからこそ、翁面を小さな行李に入れ、また「1年使わない
と表情が変わる」といわれる般若面の手入れを欠かさないのです。
入らずには面を外せない。
入れば失明する。
だからこそ、土谷家ではこの奥座敷の樵面を放置していたわけです。
調度品の類もない畳敷きの座敷は埃と煤で覆われていました。
明治の前よりこのままだと、姑は言いました。
何か方法はないかと考えていた太夫の一人が、
「あんた、向かいの太郎坊に取りに入らせたらよかろう」
と手を打ちました。
「あれはめくらだから」と。
父はなるほど、と思いました。
確かに土谷家の隣家の息子は目が見えない。
彼に面を外させに行かせたらいいのだ。
ところが、姑は暗い顔で首を振ります。
そしてこの樵面の縁起を訥々と語り始めたのです。


844 9/13 sage 2005/12/11(日) 20:25:21 ID:CUnu3Rn40
かつて日野草四郎篤矩によって神楽を伝承された4家は、その後も
大いに栄えたと伝えられている。
ところが、姑曰く土谷家はその4家よりも古い神楽を伝えられて
いるという。
日野家と同じ客人(まろうど)であった土谷家こそが、日野家以前に
この千羽に神楽を伝え、千羽神楽の宗家であったのだと。
ところがあらたに入ってきた遠来の神楽にその立場を追われ、山姫
などいくつかの演目と面、そして縁起まで奪われてしまったのだと。
そしてこの樵面こそ、土谷家が今はいずことも知れない異郷より
携えて来た、祖先伝来の面なのだと。
それを日野家由来とする資料は、ことごとく糊塗されたものだと。
そうした経緯があるためか、4家のみによる神楽舞の伝承が壊れた
のちも、土谷家からは舞太夫を出さないという仕来りがあった。
しかし江戸時代の末期に、とうとう土谷家の人間が舞太夫に選ばれ
ることとなった。
土谷甚平は迷わず樵面を所望したという。
ところが樵面を着けた夜、甚平は葉桜の下に狂い、村中を走った。
そしてこの世のものとは思えない声でこう叫んだ。
「土モ稲モ枯レ果テヨ。沢モ井戸モ枯レ果テヨ」
そして面の上から自らの両目を釘で打ち、村境の崖から躍り出て
死んだという。
死骸から面を外した甚平の姉は、密かに面を持ち去り、土谷家の
奥座敷の柱に逆さまにして打ちつけた。
その年より村は未曾有の飢饉に見舞われ、また「戸口に影が立った家」
にはいわれ無き死人が出たという。


846 10/13 sage 2005/12/11(日) 20:27:06 ID:CUnu3Rn40
樵面は樵でありながら神そのものであり、その神に別の神の言葉を
喋らせ、別の神の舞を踏ませたことが、面の怒りをぐつぐつと
長い年月に亘って煮立たせていたのだという。
そして甚平の体を借りて呪詛を村中に撒き散らせたのだ。
いわば日野流神楽への土谷流神楽からの復讐だった。

その樵面は未だに土谷家の奥座敷にて、この村を呪い続けている・・・
姑の口から忌まわしい恩讐の話を聞かされた父たちは、その場に
凍りついたままだったといいます。
憑き物がわずかに取れた顔で、姑は肩の力を抜きました。
「太郎さんはいけんよ。次は命がないけんね」
その言葉を聞いて、太夫や職員は色めきました。
姑はつまりこう言っているのです。
「太郎さんの目が見えないのは、むかし樵面を取りに座敷に入った
 からだ」と。

結局一堂は土谷の屋敷から離れました。
そして近くの神社に寄りあって、どうしたらいいのか協議をしました。
壁を壊して座敷の裏側から面を外してはどうかという意見が出ました
が、土谷家の人間を説得できない限りそんな無法はできないという
結論に至るばかりです。
さりとてこのままにはしておけない、と頭を抱えていたとき、一人の
老人が寄り合い所を訪れました。


847 11/13 sage 2005/12/11(日) 20:27:47 ID:CUnu3Rn40
90年配の高齢と思しき老人は、自分が樵面を外すと言いました。
人に外せないなら、人ならぬものが外せばいいと。

再び土谷家へ出向いた一堂は、ことの次第を姑に話しました。
老人の手を握り、承知した姑は奥座敷に案内しました。
襖を開け、再び樵面にまみえた父たちは怖気づきましたが、控えの
間から白い人影が現われたとき、えもいわれぬ安堵感に包まれたと
言います。
山姫の面に格衣、そして白い布を羽織った老人が静々と歩みよって
来たのです。
そして神歌とともに舞いながら、ゆっくりと座敷の内側に入り込んで
行きました。
息を呑む父たちの前で、不思議な光景が繰り広げられていました。
暗い座敷の中で白い人ならぬものが舞っているのです。
太夫の一人が叩く神楽太鼓の響きの中、山姫はひと時も止まること
なく足を運び、円を描きながらも奥の柱の樵面へ近づいていきました。
山姫の手が樵面へ触れるや否や、面の両目を打っていた釘がぼろぼろ
と崩れ落ちました。
100年以上も経っているため、腐っていたからでしょうが、父には
そう思えませんでした。
この襖の向こう側は人の領域ではないのだから、何が起こっても不思
議ではないと、素直にそう思えたのです。


848 12/13 sage 2005/12/11(日) 20:29:52 ID:CUnu3Rn40
ちょうど舞が終わるころ、黒い樵面を携えて山姫が座敷から出てきま
した。
「もう舞うことはないと思っていた」
森本弘明老人はそう言って山姫の面を外しました。
『山姫の舞』『火荒神の舞』『萩の舞』
三舞復活縁起のまさにその人が、最後の『樵の舞』の面を取り戻した
のです。
父は得体の知れない感情に胸を打たれて、むせび泣いたそうです。

その後、樵面は土谷家ゆかりの神社に祭られることになりました。
演目としては催されることはありませんが、『樵の舞』は土谷家に
密かに伝わっていたため、これで失われていた4つの舞が蘇った
わけです。
のちに父は機会があり、森本老人に舞太夫としての心得を聞きました。
森本老人は「素面にあっては人として神に向かい、面を着けては
神として人に向かうこと」とだけ教えました。
神そのものに心身が合一すると、はじめて見えてくるものがある。
そう言って笑うのです。
千羽神楽の中で樵は山姫と恋仲にあることが、演目のなかに見えて
きます。
しかし山姫などのいくつかの演目は、いにしえの土谷流と日野流では
まったく違うものであったといいます。
現在の土谷家に伝わっていたのは『樵の舞』だけであったため、
『山姫の舞』などは日野流と面を同じくこそすれ、一体どんな演目
であったのか皆目わからないのです。

850 13/13 sage 2005/12/11(日) 20:31:17 ID:CUnu3Rn40
しかし、森本老人はあの樵面を取り戻した舞の中で、山姫は樵を
愛していることが分かったと言います。
「きっと、いにしえの舞でも、山姫と樵は恋仲にあったのだろう」
だからこそ、樵面をあの座敷から出すことができたのではないか、と。
その言葉に父は頷きました。

神楽とは、一方的に与え、一方的に奪う、荒ぶる神との交信の手段
なのだと私は思います。
神を饗待し、褒め、時には貶し、集落で生きる弱き者の思いを伝え、
またその神の意思を知るために神楽が舞われるのだと思います。
「神」を「自然」と置き換えてもかまいません。
日本の神様は怒りっぽいということを聞いたことがあります。
しかし荒々しい怒りとともに、たいていその怒りを鎮める方法も同時
に存在するものです。
たぶん、陰々と千羽を呪い続けた樵面にとって、あの森本老人の山姫
の舞がそうであったように。

その出来事のあと、私が生まれる数年前に森本老人の家の戸口に影
が立っているのを多くの人が見たそうです。
あの樵面の呪いにより、いわれ無き死人が出るという影です。
しかしその日は、1世紀にわたって生きた舞太夫の、大往生の日だっ
たということです。

(終わり)
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 17:50Comments(0)怖い話

2010年02月11日

泣ける話 7 セピアな思い出

セピアな思い出∫泣ける話 より


170 :大人になった名無しさん :04/10/12 04:22:02

ところで、なんで良いヤツに限って、早死にするんだろうな。
俺も8年前、親友を失ってる。

高校1年の時にその親友が死んだとき、自分でも信じられないくらい泣いた。
忘れもしない夏休み間近、月曜日の全校朝礼。
ハゲの校長が壇上に上がって、しばらく沈黙したあと、しゃっくりまじりの声で俺ら生徒に前日の訃報を報告してきた。
その報告を受けた瞬間、俺は学ランを頭にかぶせて大声出して泣いた。
つられて泣いてるやつの鳴き声がいろんな角度から聞こえてた。
俺はもともと無口な方でいわゆる「クールなヤツ」って周りから言われてた。
そんな俺が大声出して泣いてるのがみんなには衝撃だったかもしれん。
すぐに担任のセン公がかけつけてきて、俺を抱きしめて一緒に泣いてくれた。

通夜の時、朝の出来事を誰かに聞いたらしく、親友のかあちゃんも俺を抱きしめてくれた。
小さな声で「ありがとう、アンタみたいな親友をもてて、あの子は幸せ者やった」って言ってくれた。俺はまた泣いた。
それから何度か女子に告白された。理由は全校朝礼の出来事で心が打たれたんだってよ。
そんなもんこっちは望んでないんだよ。

つーか、なんで良いヤツほど早く死ぬんだろうな。



275 :大人になった名無しさん :2005/03/24(木) 10:07:59

たまに思い出す、俺たち家族

―俺と弟、おやじ―

これが俺の物心ついた頃からの家族だった。
かあちゃんがいない理由は小学生の時になんとなく。
かあちゃんの親がおやじに額を畳にこすりつけるような詫びをしにやってきたのは知っているが、それ以上は知らない。
ていうかどうでもよかった。

トラック乗りのおやじもいつ家に帰ってくるのかわからん男だったから、
いない時はじっちゃんのアパートに、いる時は3人で家に、という具合だ。
じっちゃんとこと違うのは、うちの方が雨漏りがたまにするくらい。
大した違いはない。
「兄弟一致団結して」というのは嘘八百。
喧嘩は絶えず。 おやじがいてもいなくても関係なく、殺伐とした兄弟だったように思う。

そんなある日、おやじが土日2日間休みが取れたからと言う。
そしておもちゃ屋につれてってやると言う。
おもちゃ屋かよ、別に欲しい物なんてねーよ、と思ったが口には出さない。
弟も弟で、興味ない様子。

果たして休日を有意義に過ごせるのだろうか?



276 :大人になった名無しさん :2005/03/24(木) 10:09:38

日頃薄汚いおやじが朝から床屋に行った。
俺と弟はじっちゃんの家に前もって用意してもらった新しい服を取りに行った。
3人が合流したのは10時30分。
こぎれいな3人に汚い黄色の軽自動車で向った。

到着。
とりあえず昼を食って弟と距離を保って歩いていると後ろを歩いていたおやじがいない。
「いねーじゃねーか、おやじが迷子になるなよな」
「そうだな」
弟と意見が合った。
探していると、見つかった。
ボードゲームのコーナーにいる。
しゃがみこんで何かを手にしている。

「将棋セット」

駒と折りたたみの板のセットだ。
将棋? なんで将棋なんだよ、と思った俺。
とりあえず、俺はその後学校で知ってるやつに聞いてメモして家に帰った。
弟はとっくに将棋のことなんか忘れてテレビを見ている。
嫌がる弟に強制的にルールを覚えさせ、ひとまずやってみた。
3分で終わった。
勝負がついたからではない。
つまらんくなって弟が駒を投げたからだ。

その日から将棋セットは押し入れの奥へ行った。



277 :大人になった名無しさん :2005/03/24(木) 10:11:51

今日は喪主である俺がいろいろと動いた。
身内もほとんどいない俺たち家族だが、盛大に行いたいとの俺たち兄弟の考えで、おやじにとって満足できる出来映えだっただろう。

弟は仕事先の海外から家族と共に、俺は離婚した1ヶ月後にその日を迎えた。
おやじは体を壊したのが3年前、寝たきりになっってしまったのが半年程前だ。
痴呆?みたいなものにもなっていた”らしい”。
苦しまずに逝けたのが幸せか。

棺を前にして俺と弟は話しをした。

「あの時のこと覚えてるか?将棋セット」
「覚えてる。おやじ、嬉しそうだったな。」

急に俺は、探して見たくなって押し入れを探した。
すぐ見つかった。
弟と一緒に箱から開けてちょっとやってみようかという話しになった。
駒を並べ終え、始まって10分ほどした時、ヘルパーのE子さんが立ち止まったままこちらを見ていたのに気がついた。
E子さんはおやじのことで本当に世話になった人だ。


「あ、どうかなさったんですか?」俺は聞いた。
「お父さま、今年の初め頃でしたかしら、その駒を握って涙を流しながら、
 仲良うしろよ、仲良うしろよ、とおっしゃっていたもので・・・」

みるみるうちにE子さんの顔が紅潮している。
目の前の弟は下を向いたまま動かない。
俺は、箱の中に入っていたおやじが自分で鉛筆で書いた駒の動き方のメモを見ながら泣いた。

おやじ…

うまく書けないが、これが俺たち家族でした。



726 :大人になった名無しさん :2007/04/22(日) 21:27:50

R君が小5の頃、R君のお母さんが病気で亡くなった。
何でかは忘れてしまったけど。
R君はいつも活発な子で、学校ではムードメーカーみたいなタイプだった。
だから友達みんなもR君にいつも励まされたりしてるから
R君の事、励ましていこう、と思ってた。

だけどR君は葬式のとき全くもって泣いてなかった。
むしろ、笑ってた。
大爆笑してた。  お母さん死んだし~、うけんねって。
みんなR君が頭おかしくなっちゃったんだ、と思った。

違った。
みんなが、心配するから。
みんなの前で泣いたらみんな気まずくなっちゃうから、迷惑かかるから

笑った。

あとから友達の話。
葬式のあとR君はお父さんと二人ずっとずっと
泣いていた。

今でも、彼は彼のお母さんが居ない事を知らない人にお母さんの話を
されてもワラってる。
実際、転校してきた子に言われていた。

凄い豪華だね。 そのお弁当、全部お母さんの手作り?
母さんじゃない、自分だよ。
お母さんは作ってくれないの?
うん。
何で?
作れないからかな。
何で作れないの?
ちょっと遠くに住んでるんだ。 

R君より強い人を見たことがない。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 10:16Comments(0)泣ける話

2010年02月11日

泣ける話 6 父親編

うっかり萌えた父親のエピソード より


133 :おさかなくわえた名無しさん :2005/08/24(水) 15:50:50 ID:LNepweEf

何年も前の紅白で森山良子が「さとうきび畑」を歌った
戦争で父を亡くした子の歌なんだが、途中
「お父さんて呼んでみたい」と森山良子が歌ったところで
妹が父に「お父さん」と呼びかけると、父は「はあい」と返事をした
「お父さんどこにいるの」と歌は続き、
父は小さく手を振って私たちに「ここにいるよ」と言った
萌えた

父はその2ヶ月後に他界した。「ここにいるよ」と笑った顔は一生忘れない



398 :おさかなくわえた名無しさん :2005/10/16(日) 11:25:34 ID:SNFFF+21

私は今年の4月、実家(関西)を出て東京の企業に就職した。
始めてのGW、両親と兄弟が東京に遊びに来た。
もちろん家を出てから会うのは初めてだったし、1ヶ月以上会わなかったのも初めてだ。

父のことは、嫌いじゃないけどやたらとスキンシップを
取ろうとしてくるところがずっと苦手だった。
抱きつこうとしてきたり、ほっぺにちゅーしようとしてきたり
あくまでも冗談なのはわかってたけど、やっぱり嫌だった。

久しぶりに会った家族と、東京を観光してまわった。
楽しかった。
そんな時間はすぐ過ぎて、別れるとき。
私は母親と、兄弟とハグをした。母も兄弟も、ちょっとうるうるしていた。
普段じゃ絶対思わないけど、父親ともハグしたい、と思って父に向き直ったら、
「……頑張れよ」
そう言って、父は手を差し出した。
普段なら私がそういう仕草を見せたら、大喜びしたのに。
私はうん、と言いながらその手を握り返して、皆は改札の向こうに消えていった。

うっかり萌えて、ちょっと泣いた。



465 :おさかなくわえた名無しさん :2005/10/24(月) 02:34:31 ID:pagx+QnU

初めてハムスターを飼った時。
うちの父は子供の頃のトラウマからネズミ系が嫌いで大反対された。
ケージから出して抱こうものなら「早くケージにしまえ!」って怒鳴ってくる始末。
近寄りもしなかった。
でもそのハムが死んでしまって私が大泣きしていた朝、
会社に行く前に父がハムにお線香をやって手を合わせてくれて
「生まれ変わったらまた○○(私)に飼ってもらいなさい」
大泣きした。
いま書いてても涙が止まらない。



866 :おさかなくわえた名無しさん :2005/12/01(木) 20:37:44 ID:E+eegU05

結婚式の時さ、バージンロード歩く前
「これからうんと幸せになれ」ってさぁ
充分幸せに幸せにしてもらったから
お父さん、大好きだよ。



246 :おさかなくわえた名無しさん :2005/12/19(月) 09:45:32 ID:cL+aKuck

何気にこのスレ覗いたら父親との会話が懐かしくて「いいなぁ…」と思う。

俺の親父は割と寡黙で仕事バカな男で、休みの日になると酒を飲んでるか
城や戦艦のプラモを買って組み立てたり、刀のレプリカ(備前長船)を買って悦に浸り、
誰も居なくなったらパジャマ姿で抜刀の練習をして俺に見られて照れる親父だった。

ある時、盆で親戚が集まって宴会になってる時
母:「この人の夢って、○○と酒を飲む事なんだって」
父:「バカ、恥ずかしいこというな」
で、俺は子供だったので右から左に聞き流していた。
そして俺が成人を迎えてしばらくしたら病気で逝っちまった。

社会人になって理解したが「男親にとって息子と酒を飲む」ってのは
特別な事なんだと。これが親孝行の類に入るとは思わないが、
ただ「孝行したい時に親は無し」とはよく言ったモンだなぁ、と思った。



729 :おさかなくわえた名無しさん :2006/02/02(木) 14:49:48 ID:ycxaeGJW

頑固でいつも眉を吊り上げてる昭和一桁生まれの父。
当時うちには雑種犬が2匹いて、父は特に可愛がってるでもなく、
犬も子供と同じように厳しくとかって言ってよくぶん殴ってた。

その犬が11歳で死んだ。
フィラリアで、最期は家族みんなで介護した。
母と私達姉妹はわぁわぁ泣いたが、父はいつものように眉をつり上げて黙っていた。
その夜、夕食の席で、いつもはあぐらをかいている父が正座している。
やがて少し上を見上げて「実に…実に残念だなぁ…」って言った途端、涙をボロボロこぼした。
手を膝において眉をつり上げたまま。

あんなに悲しんでる人を見たのは初めてだと、今でも思ってる。
鬼瓦みたいな顔して心の中に優しい気持ちを隠してたお父さん、私はずっと好きだからね。



770 :おさかなくわえた名無しさん :2006/02/04(土) 02:13:24 ID:FKDXs6bq

もう何年も前の話だけど、私が高校卒業して進学の為に上京する日の事。
夕方のブルートレインで行く事になってて、家族が皆で駅まで見送りに来てくれた。
行きたくなくて泣きたいんだけど、昔っから家族の前では涙を見せなかった私は、
旅立ちの日だと言うのにホームでニヤニヤニヤニヤ。
入線して来たブルートレインを見てヘラヘラヘラヘラ。

絶対泣くかと決めてたから妙にハイテンションのまま乗車し、
家族も私も微妙な雰囲気のまま、微妙な別れをしてしまった。(車内で号泣)

その後聞いた話で、あの日終始無言でニヤニヤニヤニヤしてた父は、
電車が発車すると、窓から顔を出す車掌さんを追い掛けながら、
「娘が上京するんです。よろしくお願いします!」と涙目で頭を下げてたとか。
そんな父に、車掌さんも敬礼を返してくれたそう。

意地っ張りな、変な所が似ちゃったなと思う長女。(顔も父似)
そんな父にちょっと萌え。



799 :おさかなくわえた名無しさん :2006/02/05(日) 03:25:54 ID:xL0PDTP3

男です。

大学入学と同時に一人暮らし。もちろん長期の休み等には帰省。
卒業して就職後も、会社近くで一人暮らしを継続。
が、就職してからは、忙しさでなかなか帰省できず。

ある日、仕事で実家のそばを車で通る事になり、数分だけ実家に立ち寄った。
その日は日曜日で(仕事は休日が稼ぎ時の仕事です)家族は家に滞在。
到着後、俺が放った一言で親父を号泣させてしまいました。

泣きながら「ここはお前の家だ。他人行儀な事するな!」と怒鳴る親父。
俺と、おかん、兄貴呆然。とりあえず必死でなだめて、「もうああいう事は言わない」と固く約束。
今まで生きてきて、親父が泣く姿を2回しか見てなかった俺は、ショックを受けながら
ホントに悪い事したと車内で涙目になりながら後悔しました。

ちなみに俺が目撃した、親父が泣いた時とは
祖母が亡くなった時と映画「ハチ公物語」を見た時。

俺が親父を号泣させた一言
「ごめん、トイレ貸してくれ」



839 :おさかなくわえた名無しさん :2006/02/07(火) 03:10:54 ID:moQ5VX0v

私はあまり家で料理とかしないんだけど、この前彼氏が泊まりに来たから、カレーを作ったんです。
次の日鍋を見たら、カレーはまだいっぱい残ってて、誰も手をつけてませんでした。
あーあっせっかく作ったのに。と大きな独り言を言っても、みんな無視。
私は拗ねて自分の部屋に戻りました。
何時間かして、台所に戻って鍋を見たら、失くなってました。
近くにいた母が『あんたが拗ねたりするから、お父さんが全部食べたよ。お父さんカレー嫌いなのにねぇ。』
と言われて泣きそぅなった。



850 :おさかなくわえた名無しさん :2006/02/07(火) 22:17:21 ID:F3134j9x

4年程前の話。

母方の祖父がなくなった葬儀の帰り。
母親が自分の父親を亡くして
本当に悲しんでいるのを見たためと思われる、
二人きりの車の中で言った一言。

『○○、大丈夫、お父さんは死なないぞ。お父さんは不死身だからな!』

私を悲しませまいとするパパン。ありがとう。
お母さんのことも私のことも大切に思って
言ってくれた一言だったんだろうなって思ってちょっと泣いた。



276 :おさかなくわえた名無しさん :2006/03/12(日) 21:18:59 ID:Os2U/yfA

萌えるとは少し話が違うかもしれないけど、俺は死んだ親父の大ファン。
教師をしていて、授業の腕もクラス造りの腕も抜群で生徒や保護者からの信頼も厚かったんだが、生徒をかばうために上司と喧嘩をしたりで経営陣からは煙たがられていた。
学校で不審者による事件が起こり、全校生徒を休ませる事になったが校長だけが反対。
「俺は自分を悪者にしてでも生徒をかばうぞ!」と言う発言と共に校長を殴り、解雇。
当時学生だった俺と妹の学費を払うために塾講師のバイトを掛け持ちするが、収入が減ったのと担任を持って生徒と直に触れ合えないのでストレスが溜り、飲酒運転をして事故を起こし、45歳の働き盛りで教育界から追放。
それからはいつもジャージで髪はボサボサ、無職で酒を飲んでばかりの生活に。
酔っぱらって石段からころげ落ち、一時入院。
その後いつもうわ言のように「担任を持ちたい~」と言いながら酒をあおり、51歳で亡くなった。
無職の落ちぶれた親父の葬式なんて誰も来ないと思ってたら教え子が1700人参列。
破滅型人生だが、こんなにも自分の職業を全うした人間はいないと思う。



381 :おさかなくわえた名無しさん :2006/03/21(火) 10:08:54 ID:312nh1nx

うちのとうちゃん、飼ってた九官鳥に父ちゃんと呼ばれて喜んでた。
すごく、すごーく可愛がっていて。
なのに父ちゃんが会社に行ってる間に放し飼いの猫に襲われた。
九は父ちゃん父ちゃんと助けを呼んだが、がっつりやられてご臨終。
父ちゃんに電話したら九の声が届いていたらしい。
いま、呼ばれた気がして昼休みにでも電話しようと思っていたと
・・・事の顛末を説明。
電話先では怒るでもなく、泣くでもなく、ただうなずいていた。
帰りに九の好きなバナナと花を買ってきた。
かあちゃんにさえ花なんて買ってくること無かったのに。

それ以来猫嫌いで動物は飼ってない、飼えない。



580 :おさかなくわえた名無しさん :2006/04/07(金) 19:04:02 ID:4IifbRgO

去年のGWに結婚式をした。
花粉症が酷くてさ~なんていいながら、真っ赤な目でうるうるしてた父。
パパ、知ってるんだよ、花粉症じゃないよね??



639 :おさかなくわえた名無しさん :2006/04/14(金) 23:27:03 ID:pynkqxLg

親父は母方の家業を継ぐため夫婦揃って家を離れていった。俺と兄を一戸建ての家に残して。
数年後兄も結婚し家を出た。
そして俺も転勤で家を出ることになった。
とりあえず家をどうするかは後回しで、俺の引越しの準備のため親父が遠路はるばるやってきた。
俺は母譲りの心因性貧乏症ゆえなかなかモノが捨てられず、我が家はゴミ屋敷状態だったのだ。
家族が揃ってた頃は、ソレによる夫婦喧嘩もよくあった。

親父がやってきて片づけをはじめたが、案の定モノ貯めすぎだとグチグチ口うるさかった。
そしてひと段落ついた今日、俺が会社行ってる間にようやく親父は帰った。
帰宅し、手伝ってくれたことには感謝しつつもようやくのんびり落ち着けると思いながら静かになった部屋の明かりをつけると置き手紙が。
仕事しっかりやれとかエロ本きちんと片付けろといった小言が続き辟易してたら……

家を片付けてると押入れの奥から懐かしいものが出てきたと書かれていた。
俺ら兄弟が赤ん坊の頃のかいまきや子供服やらおしめやらタオルやら、そんなものまで丁寧にしまわれていたという。ソレを見つけた親父は涙が止まらなかったそうだ。
手紙も、そのあたりで文字は滅茶苦茶に乱れ、読み取るのに往生した。

変にこだわらず捨てろ捨てろとうるさかったくせに……。
なんかキーが打ちづらいな、タイプミスしまくり。何でだろ?

俺の転勤先は今よりは親元に近いから、父の日には親孝行してやるか。



777 :おさかなくわえた名無しさん :2006/04/26(水) 16:50:19 ID:BJGHnsT4

私の父は真面目で寡黙、自分にも他人にも非常に厳しいひとだった。
中学生の時のこと。
リビングで寝ていた父が突然ガバっと起き上がり
隣でテレビを見ていた私に言った。
「比叡山いこっ!比叡山!」
私が( ゚д゚)ポカーン な顔をしているとまたすぐに寝てしまった。
どうやら私が小学校のときに
家族で比叡山へ登った時のことを夢に見ていたらしい。
普段の物静かな父とのあまりのギャップに萌えてしまった。
朝になってこのことを言うと
「知らん!覚えてない!」とのこと。
このころは家族仲があまりよろしくなくて
父なりに昔のようになりたいと頑張ってたんだろなぁ・・。

結局一緒に行ってあげることは叶わなくなりましたが、
残された家族は今仲良く暮らしてるよ。
心配しないでね。



825 :おさかなくわえた名無しさん :2006/04/28(金) 21:12:35 ID:FtMBstoA

オトンが毎日納豆を食べていた。
納豆2パックに卵1個に大量のネギ。
卵を1個まるまる入れるのでちょっとちょっとゆるい感じがする。
で、オトンは納豆を酒のつまみにして
私もおすそ分けしてもらった納豆をご飯のおかずにして……

それから約30年。私は嫁に行った。
ダンナは納豆にたれとカラシの普通の食べ方だった。
オトンに孫を見せると喜んでくれた。
で、オトンが死んだ。別に急死でも変死でもなかった。
今年3回忌だった。
思い出話の1つとして「お父さん、納豆好きだったよね」と母に話した。
私「お父さん、いつも納豆2パックに卵1個入れてたよね」
  「そういう食べ方ってわりと珍しいよね」
母「お父さんっていうよりあんたが好きだったからね」
  「お父さんは普通に醤油かけるのが好きみたいだったよ」
  「あんたがそういうの食べたいっていうから」
 
あやー、オトン、バッカじゃない。
納豆くらい自分の好きなように食べればいいじゃない。
30年ホントに全然気がつかなかったよ。

オトンのバカへ。ありがとう。



984 :1/2 :2006/05/08(月) 21:50:40 ID:ALFFcM60

うちの父は傍若無人で「子供か!」と思うぐらいバカな奴だった。
小学校5年の時に脳内出血で右半身不随になったけど、病院でもワガママばかりで、
トラブルを起こしまくり、最終的に病院から追い出された。
転院先も見つからず、自宅介護になったが、殿様気分な態度でウンザリしてた。

当然、父の事は大嫌いだった。憎んでいたかも知れない。

私が受験の時にもワガママをぶつけてきて、
「(私が産まれた事や生きてる事や暮らしてる事全てをひっくるめて)誰のおかげだと思ってんだ!」
の一言にぶち切れて「お前さえいなければー!」と殴りかかった事もあった。
身動きの取れない病人相手だったので、当らないようにわざと外して枕やクッションを殴ったけど、
父にとってはショックだったと思う。
その時、父は「情けない」と大泣きしていた…。
その言葉が自分に対してなのか、親に殴りかかった娘に対してなのか今でもわからないが…。



985 :2/2 :2006/05/08(月) 21:51:30 ID:ALFFcM60

時が過ぎ、24歳になった頃…
父はすっかり衰え(…と言ってもワガママと傍若無人は相変わらず)合併症を起こして再入院していた。

元々余命3日と言われた状態で14年生きてきたので、いつ何があってもおかしくは無かったけど、
やせ細って 食欲も落ち「本当に長くはないんだろうなぁ…」と言う感じだった。

丁度その頃、結婚を考える彼氏がいた。彼には重荷だったと思うが、
一度見舞いに付き合ってもらい、父に「息子になるかも知れない人」だと説明した。

てっきり怒るか拗ねるか説教するかと思ってたら、父はとても嬉しそうに笑った。
「いい男じゃないか」と言ってニコニコしてた。
後日、叔母にも嬉しそうに自慢していたらしい…

その数日後、父は他界した。  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 10:04Comments(0)泣ける話

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アマミちゃん(野崎りの)
アマミちゃん(野崎りの)
小さい頃の夢はマザーテレサとジャンヌダルクでした。
あれから20数年、今では立派なメタボとなりました。