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2010年03月11日

泣ける話 25 萌えた父親のエピソード

No.482 うっかり萌えた父親のエピソード 4 より


246 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/11(日) 14:15:05 ID:cV+9y1NB

久々実家に帰って、母とテレビを見ながら
「倖田來未のDVD欲しいんだよね~」
なんて何気なく会話してたりした。

そんな会話してたのなんか忘れてた 数日後…
自分で録画したであろう、倖田來未のDVD(PVとかではなく金スマやタモステ) が父から届いた。

ほしいって聞いたので送ります。父さん

西郷高盛みたいな父が倖田來未を録画する姿を想像して萌えた。

そしてちょっと泣いた。



145 :おさかなくわえた名無しさん :2006/05/23(火) 04:26:38 ID:2vthEk7W

高校で停学処分の前に学校に呼び出しを受けた時、普段車でしか移動しない父が電車で行くと言った
私がいつもどういう道のりを通っているか知りたかったらしい
無口で厳格な父が切符を買うのにあたふたしたり改札で戸惑ったり満員電車で慌てている姿を見て、なんだか切ないというか愛しくなった
と同時に申し訳ない気持ちでいっぱいだった
今でもその時の父の姿思い出すと切なくて泣けてくる

147 :おさかなくわえた名無しさん :2006/05/23(火) 06:13:39 ID:TcJREWMz
この前父さんとバッティングセンターに行った。
病院の帰りに、私の気を晴らそうとしてくれたんだろう。

やってみたら意外にハマっちゃって、80キロまでの球ならたまにしょぼしょぼ当たった。
で、父は120キロに挑戦。
そりゃもう凄くて全部「カキーーーン」と飛んでいく。
で、「すごい!!パパすごいっ!!」と褒めたら
普段厳格な父は「いや、まだまだだよ。」なんて言いながら(ノ´∀`*)←こんな顔してたww

彼氏が出来てから半年振りにまともに喋ったよ、パパン大好きだよ。

ちなみにうちは三人娘に、一人息子だが息子には厳しく、姉と妹には優しく、私は猫っ可愛がりw
「短気で頑固なとこが俺に一番性格似てっからな……あいつ(私)もいいとこあんだよ。」と母親にしょっちゅうこぼしているらしい。

ごめんねパパン、たまには実家帰るよ。



214 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/05(月) 05:58:57 ID:PVEvk6jI

自分の話じゃなくて恐縮なんですが、友達のパパンに萌えた。
「旅に出る」と一言いって急にいなくなったらしい友達の父。
そんなことは初めてだったらしくみんなたいそう心配したそう。

しかし、3日後くらいから葉書が毎日届いた。
「7月23日。父は釧路の港に降り立ち候。薄く煙った霧にかすむ海。」
みたいな堅苦しい感じの文章なんだけど、自分でかいたイラスト入り。
しかも毎日、何を食べた。どこに泊まった。温泉に入った、等事細か。
友達もその絵入り葉書を大事にアルバムに保管してて、見せてくれた。
なんか、ぐっときました。



272 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/12(月) 14:02:29 ID:v6h5YCwY

元々,食の細い父ちゃん。
よくそれだけで,あんな肉体労働できるね?って不思議なくらい。
この間も母ちゃんが「豆腐と枝豆くらいしか食べない」といっていたので,実家に帰った時にハンバーグを作った。
あまり良い出来ではなかったけど,よく食べておかわりまでした。

「美味いから久々によく食べれたよ」と苦しそうにいう父ちゃん。
泣かせるつもりだったのに,泣かせないでくれよ。



357 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/19(月) 16:11:23 ID:b5t0U7jI

書斎に飾ってある絵画の額裏に
私が小さい頃描いた父の似顔絵が貼ってある事を、最近私は知った。

定年退職祝いのプレゼントをにこりともせずに受け取る無愛想な父だが、
時々その絵を見ては、ニヤニヤしているのだと母が教えてくれた。

「ばは だすき」と書かれたその絵に覚えはないけれど、
にこやかに微笑むその顔は知っている。



537 :おさかなくわえた名無しさん :2006/07/11(火) 12:48:01 ID:CzReXlWI

最近気づいた。

子供のころ工作で父ちゃんと願いの叶う箱ってのを自分で作った。
その箱に「500円ほしい」とか「お好み焼き食べてみたい」とか紙に書いて入れておくと
数日中に思わぬお小遣いがもらえたり、お好み焼き屋に連れて行ってもらえていた。
スゲー神様いるんだー!って喜んでたけど
神様は父ちゃんだったんだな・・・。

願いの叶う箱は近所の友達にあげちゃった。
「すごいよ!願い事が叶っちゃうんだから!」とか言って。
もったいないことしたわ。



744 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/06(日) 17:08:04 ID:qm43kBIC

光学式のマウスを買った父。
ブックカバーをマウスパットにしていたので、子犬の寝顔のマウスパットをプレゼントしました。
で、こないだ実家行ったら相変わらずブックカバーを使っているので、母親に事情を聞いたら
「だってマウス上に置いたら見えなくなっちゃうでしょ?」
と言って使わなかったらしいのです。
マウスパットは、窓辺に写真のように飾られていました。



811 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/10(木) 23:37:59 ID:GY0PjiOT

私が小学校5年の父の日。父に買い物に誘われた。
普段から父とは仲良しだったので、喜んでついていった。行き先は御徒町。

どこに行くでもなくプラプラと歩いていたら露店でバッグ類を売っていた。
覗いてみると旅行用の大きな、でも薄っぺらい、お人形がたくさん描いてあるバッグがあり、手にとって見た。

「買うか?」
「いいの?でも今日は娘の日じゃなくて父の日だよ?」
「父の日だから子供に買ってあげるんだよ」

この会話をはっきりと覚えてる。
いいのかなーと思いながら、ニコニコ顔の父に買ってもらいました。

自分が親になった今、父の気持ちが分かります。
娘の笑顔が嬉しかったんだろうなぁ。
流行遅れでボロボロのバッグは、未だに捨てられません。
いや、一生とっとくんだろうな私。



  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:59Comments(0)泣ける話

2010年03月11日

泣ける話 24 二度と会えない友達

.483 二度と会えない友達 より


32 :大人になった名無しさん :03/10/26 03:08

小学校の時ラオスの難民の子達が何人か編入され、そのうちの二人と友達になった。
卒業し、中学生になった時、2人とは離れ離れに。
一人は学力が追いつくまで他の小学校に再編入。
もう一人は在学中に白血病で亡くなった。
枯葉剤というものの恐ろしさを知ったのはその時だった。
薬の副作用で髪の毛が抜け落ち、学校生活の半分を保健室で過ごしながらも一生懸命日本語を勉強していた彼女。
2年ほどの短い付き合いだったけど未だに忘れられない。



197 :大人になった名無しさん :04/06/03 21:50

5年前、仕事で一年間インドネシアのアチェに派遣された。
そこで18歳の青年と仲良くなり、同僚達と一緒に彼が働いてる店によく飯を食べにいった。

彼は母親と6歳年下の妹の3人暮らしで、父親は7年前に国軍との戦闘で戦死してしまったらしい。
夢はでっかい店を建てて母と妹に裕福な生活をさせてやる事だとよく言っていた。

派遣されて11ヶ月が過ぎた頃、我々のキャンプに彼がやってきた。
仕事が終わって帰ったら母と妹がいなくなっていたらしい。
俺は同僚達と共に周辺地域を朝まで捜索したが結局見つからなかった。

彼のもとに母と妹は二度と帰ってはこなかった。
俺と同僚達は一年が経ったので帰還した。
非常に後味が悪い仕事だった。

2年後、我々の依頼人であった人物からメールが届いた。
母と妹を失った青年は、我々が帰還してすぐGAMに入ったらしい。
そして、その青年は父親と同じ運命を辿ってしまった。



289 :1/4 :04/10/07 15:58:56

小6の春から3年間同じ塾に通って高校受験を一緒に乗り越えた奴らは男女も越えて、友達というよりは仲間・・
「戦友」という言葉がしっくり来る。

あいつらと出会ってもう10年になるのかな。
私が鬱病で毎日死にたくて苦しんでいた時、一人が
「あんたがたとえ鬱病でも人殺しても借金まみれになっても、味方だから」
って言ってくれたりした。

高校受験で、成功した奴も失敗した奴もいたけど、
もう二度と会えないのは、失敗して大学の付属に行った中の一人の男の子、T君。
第一志望に彼より成績がちょっと悪かったような奴が受かったりもしたのに
笑顔で「おめでとう!良かったな!」って言っていた。
高校に入っても、お互いの文化祭に行ったり、集まって遊んだりして月日は過ぎた。

高3の冬、12月の寒い日だった。
私は受験を控えて、学校が終わった後ミスドで勉強してた。
そこに、仲間のひとりの女の子Aから電話。
「お、ひさしぶり~^^ 元気~?」
能天気な私の言葉に、返ってきたのはそれを打ち砕く一言だった。

「さっきね、T君が亡くなったらしいんだ」

「・・は?う、嘘でしょ?なんで!?」
想像だにしていなかった私は、ドッキリでひっかけようとしてるのかとさえ思った。

「私もT君がずっと入院してたの昨日知って、
 明日お見舞い行こうって約束したばっかりなんだよ・・まさか今日死んじゃうなんて・・」

「は!?入院なんてきいてないよ!?」

「みんなは受験があるからって、私たちに心配かけないように秘密にしてたらしいんだ。
 入院してるって、昨日T君の学校の人からきいて知ったんだよ。 ・・本当に信じられないよ」

「嘘でしょ・・・」

信じられなかった。
私と同じ年の、18歳の、仲間が、T君が、病気で、死んだ?
頭が真っ白になって、お店の中の雑音も遠くに聴こえた。
もちろん勉強どころじゃなくなって、仲間内に電話をかけまくった。
連絡をとりあって、みんなでお通夜に一緒に行くことにした。


お通夜の日。
色々な制服で集まった。
高校の制服姿の参列客が列を作っていた。
T君は、遺影の中でいつも通り笑っていた。
お焼香の順番が回ってきて、T君そっくりな弟を見たとき涙が溢れた。
泣いている私に向かって、お母さんが深く頭を下げてくれた。

みんな、若い友達が死ぬということに現実感がなかった。
私たちはケンタッキーに行って、学校のことや受験のことを喋ってバカなことをやって、いつも通り笑い合うことしかできなかった。

通夜帰りに笑うなんて不謹慎かもしれない。
でも、どうしても、誰も、T君のことに触れられなかった。
信じたくなかった。
もう会えないなんて、もう話ができないなんて。

お見舞いにすら行けなかった悔しさが胸に渦巻いた。
喋ったら、その瞬間に本当のことになってしまいそうで。
笑っていないと、悲しみが堰を切ってしまって耐え切れないだろうことがみんなわかっていたから。

帰り際、一人の男の子がポツリと言った言葉は今でも忘れない。
「もうこの先50年は、この中の誰も死ぬな。約束だからな。」


T君が亡くなって、もうすぐ4年。
いつもの仲間と飲みながら、ようやくT君の名前が出せるようになってきた。
香典返しに同封されていたテレホンカードは、
今でも未使用のまま財布の中に入れて持ち歩いています。






627 :大人になった名無しさん :2006/03/32(土) 10:04:40

別れの季節から、出会いの季節へ。
どうか、あの人に会えるように。


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:53Comments(0)泣ける話

2010年03月11日

泣ける話 23 思い出の一本

No.487 思い出の一本 (   )y-o O O より


710 :名無しは20歳になってから :04/03/09 23:01

大好きな叔父さんがいた。
柔道をやってた叔父さんはガッチリしてて、酒も強かった。
少し酒臭かったけど叔父さんの膝の上が好きだった。
ずっと兄が欲しかった親父も「兄貴」と親しんでいた。
叔父さんは俺の誕生日にいつも欲しい物をくれた。
遠慮がちの子供だった俺は親にも欲しい物を言ってなかったのに、
どういうわけか俺の欲しかった物をピタリと当てて買ってきてくれていた。
小学校最後の誕生日に叔父さんが家に来た。
「はい。誕生日おめでとう。」と渡されたのは安いトランプだった。
全然嬉しくなかったのに俺は一生懸命笑顔を作って「ありがとう」と言った。
残念がってるのにそれを隠そうとする俺を見た叔父さんは「男だな、お前は。」とニコっと笑って、
後ろに隠していた当時並んでも手に入らなかったスーパーファミコンとソフト3本を手渡してくれた。
そんな意地悪をする叔父さんが憎かったけど大好きだった。
叔父さんが次の日、突然失踪した。
原因は当時わからなかったけど今思えば納得がいく。
金があればすぐブランド物に手を出す叔母さん、そんな娘を何よりも愛する祖父。
比較的高学歴高収入のウチの家系で高卒の一般サラリーマンの叔父さんをよく思っていたのは俺と俺の両親だけだった。

いつの間にか叔父さんの失踪も記憶から薄まってきた10年が過ぎたつい先日、
大学から帰った俺が部屋に着いて煙草に火をつけて間もなく、母親が俺の部屋のドアをノックした。
「○○叔父さんね、死んだって」
ウチの家系からは誰も葬式に出なかったらしい。
俺の両親も妻や祖父に止められてどうしても出させてもらえなかったらしい。
(そもそも叔父さん側の肉親がウチの家系を憎んでいたため簡単には出れるとは思っていないが。)
俺は悲しみと悔しさで涙をこらえるのが精一杯だった。
母が俺の部屋を出るときに言った。
「あんたは覚えてないかもしれないけどね。あんたが吸ってるその煙草、叔父さんも吸ってたのよ。」
せめて煙草の火を消すまで泣くまいと思ったが、ドアが閉まってすぐに声をあげて泣いた。

火を付けただけでほとんど吸わずにフィルターまで灰にした思い出の一本。



218 :名無しは20歳になってから :03/04/08 01:15

 吸い出してから田舎に遊びに行った時、いつも帰る寸前は、軒先で吸っていました。
それを見ていた家の叔母ちゃんが、「そこで吸うと美味しいかろ、爺さんも、父さんも、
そこで、吸ってから、家を出ていったんよ」と聞いて(爺さん、父さんと一緒に吸ったことがない)
それから、弟と二人、少しでも、親父達と共通の思い出の時間がほしいと、火をつけて
吸わずに、ずっと、そこから見える風景を眺めるようになりました。



522 :名無しは20歳になってから :03/10/19 21:14

大学に入って彼氏が出来た。
私の事が好きだと言って、この人なら好きになれそうだと、押されて付き合った。
話しの流れで私が煙草を吸ってることを知った彼は、「もう吸わないで」と言った。
私はその時「付き合ってるからって指図されたくない。
○○(彼氏)の前では吸ったりしないし、関係ない。なんでそんな事言うの」
とちょっと不機嫌になった。
でも彼は、好きな人の身体を心配するのは当然だよ、吸ってほしくないと言った。
いまいちピンと来なかったけど、一生懸命そう言う彼を見て、もう吸わないと言った。
彼も以前は煙草を吸っていた人で、ヘビースモーカーの友達とバイトしていたときには
ガマン出来ずに喫煙してた時があった。
その時私は「人に吸うなっていうんだから○○も吸っちゃだめだよ」と怒った。
また彼は煙草をすわなくなった。二人で煙草はだめだよと言い合った。
今思えばそれもちょっとした束縛だったのかな。

私は彼を本当に好きになって、好きな人と一緒にいる喜びとか、愛しさを知った。
でも、私の気持ちが彼への思いでいっぱいの時に、彼の気持ちはゆっくりと冷めていった。
彼の変化に戸惑って、何度も電話したりメールを送った。
この先どうなるんだろうと思って眠れない夜を過ごした。食事も食べられなくなって、4キロ痩せた。
結局そんな毎日に疲れて、私は彼に「別れよう」とメールを打った。
彼は引きとめもせず、あっさりと私達の関係は終わった。
煙草を買って火をつけて、一緒に撮ったプリクラと写真と、二人で行った場所のチケットを破って捨てた。

毎晩毎晩泣いて、彼の夢を見て、朝起きて途方にくれる。
いつかまた、私を愛してくれる人が現れたら禁煙しようって思います…。



876 :前編 :04/05/21 08:22

では俺も一服。
数年前、姉が死んだ。白血病。煙草が嫌いで、酒は二十歳で止めていた。
2年近くも無菌室に入っていて、白い肌が自慢だったのに、死んだときは真黒になってた。
自分自身、「いつ死んでも動じない」ってつもりでいたし、通夜の夜はそうしていた。

お葬式が済むと焼き場に行った。みんなが泣く。こいつら馬鹿じゃないかと思った。
一旦家に帰り、時間を潰して、焼きあがったころにもう一度焼き場に行く。
骨だけになっていた。それを壷に入れて、箸で潰して、ぐしゃぐしゃにして蓋をする。
身長160センチの姉が高さ40センチに満たない壷に収まった。



877 :後編 :04/05/21 08:30

急に泣きたくなった。隠したくて、胸元探りながら親戚の兄ちゃんに訊いた。
「煙草吸っていいですかね?」
声が初めて震えた。兄ちゃんは困った顔で「駄目だろ」と言った。
それから自分でも止められないくらい泣いて、父親にしがみついて泣いた。

帰って、誰にも見られない部屋で吸った。
フィルターが手についた涙でふやけるくらい泣きながら。
ふやふやになった煙草の味と形。忘れられない一本です。



319 :名無しは20歳になってから :03/06/22 20:51

そいつは何も取り柄の無い…むしろ、ダメな部分しか無い奴だった。
学生時代はイヂメしか思い出が無く、小企業に入っても
仕事の失敗ばかりを繰り返しては上司にしかられる毎日。
もちろん、彼女もいなければ20になっても童貞のまま。
人生が嫌になって、とうとう首をくくる時が来た。
死んだほうが生きているよりもいいだろう、まさしく死んだほうがマシ ってやつだ。
でも、いざロープを目の前にすると恐怖でなかなか先に進めない。
死ぬ勇気すらも無い、完全な落ちこぼれ 社会のゴミ。
そんな彼は、21という若さで会社をクビになった。
死ぬ勇気も不良やホームレスになる勇気も無い。
まさしく生き地獄だった。

実家に帰り、嫌で仕方の無かった親の家業を継ぐことになった。
親はしがない町のおもちゃ屋だった。
近くの小学校の全校生徒合わせて10人もいないガキが客。
おもちゃが売れるわけも無かった。
そんなある日、親父が42という若さでこの世を去った、死因は単なる風邪だった。
そして、とうとう店をたたむことになった。
おもちゃは捨てるのはもったいないので、売ることにした。
そして、人生の転機は訪れた…

古いおもちゃのほとんどに莫大なプレミア価格がついているものが山ほどあったのだ。
そして、その日初めて 親父と同じマイセンに火をつけた。

今、その彼はマンションを買い、生活費も楽に稼いでいる
嫁も子供も出来て幸せな生活が手に入った…
親父の吸っていたマイセンをくわえて毎日親父の遺影に手を合わせて
心から感謝の言葉を並べる。
線香と1本のマイセンを立てて…

今日も俺は親父への感謝を忘れない。



335 :名無しは20歳になってから :03/07/23 23:35

高3の秋、大好きだったおじいちゃんが亡くなりました。

母方の祖父で、私は(今もですが)父と仲が悪く、あまり好きじゃなかったので
父に怒られたり殴られたりした時はいつもおじいちゃんの家に逃げていました。

高校生になってもボロボロ泣いて飛び込んでくる私におじいちゃんは何も聞かずに、
たくさん用意してあるお菓子を目の前に出しては
「そんなに泣かないでいいから、これ食べてお茶でも飲め」
と、慰めてくれました。

仕事熱心であんなに元気だったおじいちゃんも、4年前に膵臓癌で亡くなりました。
最近おばあちゃんと2人で、おじいちゃんの使っていた農作業用具の物置を掃除していたら、
見覚えのあるタバコ入れが落ちていました。
病気になってから家族に喫煙をとめられていたにもかかわらず、きっと物置に隠れて
こっそり吸っていたんじゃないかと思います。

小さい頃からいつも見ていた青いタバコ入れが物置にポツンと落ちているのを見て、
私は涙が止まりませんでした。
たまに大声で怒鳴っても、私にはいつも優しかった。
昏睡状態に入る何日か前、私に笑いかけながら言おうとした言葉は何だったのか、
聞きたいことも話したいこともまだまだいっぱいありました。

4年経った今でも、ぶどう畑に行けば、青いタバコ入れを胸ポケットに入れたおじいちゃんが
黙々と働いているんじゃないかと思ったりもします。

タバコ入れはお仏壇の引き出しにしまってあります。
いつか私が結婚して家を出ることになったら、持って行きたいと思ってます。

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:51Comments(0)泣ける話

2010年03月11日

泣ける話 22 泣ける思い出

No.488 泣ける思い出話しようぜ より

134 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/02(火) 02:55:19 ID:aMjldn2b

中学の頃、学校でいじめにあっていた、教室に入れなくていつも保険室に通っていた。

いじめの事は家族にも言っていない、ただ私のワガママで保険室に通っているだけ、と教師、両親は思っていた。

いじめは段々とエスカレートし、また陰湿だった…
でも回りに心配かけたく無くて、いつも無理して笑っていた。

辛くて孤独でどうしようも無くて、死んでしまおうと決心した日、高校生の兄が修学旅行から帰って来て私にお土産をくれた。

どこかのドライブインに売っているような、キーホルダーのオルゴール、長崎に行って来たハズなのに…

幼い頃から、兄と常に一緒にいたが、兄にはいつもイジメられた記憶しか無い。
だから、長崎のお土産を私にだけはくれなかった、そう思った瞬間、学校でのイジメと重なり、私はそのお土産を『こんなのいらない!!』と投げつけてしまった…

すると、その衝撃でオルゴールがなった、題名は知らないけど
『涙など見せない強気なアナタをこんなに悲しませてるのは誰なの?』
って言う歌詞の曲が…

兄は、何も言わずにそのお土産を拾おうとしゃがんだ、兄は泣いていた。
初めて兄が泣いているのを見て、呆然としていると、兄がポソリと言った

『お前をイジメて良いのは、兄貴の俺だけだ、それ以外のヤツがお前をイジメるのは許せない、俺は知ってるから、お前が家で我慢して笑ってる事。
 小さい頃からいつも俺の前で泣いてたんだから、我慢なんかしなくて良いんだぞ。
 俺は、イジメてばかりの兄貴だけど、他人に妹をイジメられて黙っていられる兄貴じゃないからな。』



138 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/02(火) 04:19:47 ID:aMjldn2b

その言葉を聞いて、私は号泣、学校のイジメの事を全て吐き出しました、泣きすぎて喘息で咳き込みながら、全部…

兄は横に座って聞いてくれていました。
全部話し終わると、『よく頑張った』と一言言って頭をポンポンと撫で、
『今日は寝ろ、明日は学校行かなくて良い』 と言って部屋から出て行きました。
暫く一階で母親と兄が会話している声が聞こえてきました。

翌日から暫く学校を休み、再び登校すると、イジメはかなりされなくなっていました。
教師に聞くと、兄が中学の教員室に乗り込みぶちギレて行った様でした。
高校の生徒会長が乗り込んで来た為、教師も慌ててイジメに関して動き、結果私を含め多人数がイジメの被害にあっていた事も判明しました。

その何年か後、私は旦那と知り合い、結婚式を挙げた時、兄貴は
『小さい頃から、俺は妹をイジメて泣かして来た、
 でも、お前をイジメるヤツは俺は許さない、
 どうかこれからは、俺の変わりに守ってやってくれ。』と…


兄ちゃん、今日は兄ちゃんの結婚式だよ、お返しに今日は私が兄ちゃんを泣かすから。



139 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/02(火) 11:34:21 ID:XpSTD73+

涙など見せない強気なアナタを~

『元気をだして/竹内まりや』




100 :おさかなくわえた名無しさん :2007/09/09(日) 07:37:01 ID:bAHHBoA+

昨日娘の一歳の誕生日でした。

朝、誕生日の支度をしていると母が一つの古い包みを持って来ました。
包装紙は黄色く変色し、リボンもクシャクシャなソレを母は私に渡すと、『お父さんからだよ』と一言言って、奥の部屋へ行ってしまいました。


お父さんからって…お父さんはもう12年前に亡くなったじゃないか…と思いながら包装を解くと、木彫りのオルゴールが出て来ました。
蓋を開けると、メッセージカードが入っており、ソレには


『お爺ちゃんの孫へ、 あなたのママが生まれた日、このオルゴールを見つけました、いつかはあなたのママもお爺ちゃんの様に親になる日の為に、このオルゴールを送ります。 パパになったばかりのお爺ちゃんより。』


生きてる時、随分気の早い性格な人だったと覚えていたケド…
こんなに気が早いなんて、亡くなる前に母にこの包みを渡して『孫が出来て、一歳の誕生日に渡してくれ。』と頼んだらしい。

ありがとう、お父さん。



236 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/26(金) 22:11:09 ID:vBWJM1zv

交通事故に遭って左半身に少し麻痺が残り、
日常生活困るほどではないけど、歩くとおかしいのがばれる。

付き合い始めの頃、それを気にして一歩下がるように歩いてた私に気付いて
手をつないで一緒に並んで歩いてくれた。
家に帰ってから訳を聞かれて「○君に恥ずかしい思いをさせたくなかったから」
って言ったら「どうしてそんな考え方をするんだ」と怒られたので

「大好きだった○君と付き合えてるだけで幸せだから。
 私と付き合うことで○君に少しでも嫌な思いをさせたくないから」
と言ったら泣きながら私の両手を持って目の中を覗き込むようにして諭してくれた。

「俺はお前と付き合ってあげてるわけじゃない。
 俺がお前を好きで一緒にいたい、付き合いたいと思ったから付き合ってるんだ。
 お前の体のことなんか、ずっと前から知ってたけど、
 一緒に歩いて恥ずかしいなんて一回だって思った事はないよ。
 お前がそんな風に考えてるのが俺は悲しい。
 俺に気を使わないで。自分の事を恥じないで。
 もっと自信をもって胸を張ってほしい。
 ずっと並んで歩こうよ。お前は俺の自慢の彼女なんだから」

私のことをここまで思ってくれる人には絶対会えないと思う。
すごく嬉しくて、涙が止まらなかった。
今は、どこに行くときも並んで歩いています。



140 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/02(火) 12:10:14 ID:aMjldn2b

今着付けが終わって覗いたら、曲の題名が!!


ちょっと行って探して買って来ます!!

ありがとうございます!上の方!!







141 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/02(火) 12:24:04 ID:XpSTD73+

>>140
急げ妹!曲をBGMに兄を泣かせてやれ!








143 :おさかなくわえた名無しさん :2007/10/02(火) 21:52:42 ID:aMjldn2b

何とか走り回って CDを見つけて買い、式に間に合わせました。


途中転んで、着物はボロボロになりましたが…

良かった、本当に今日思い出の曲が判るなんて、式でこの曲と一緒に手紙を読みました、中学の頃の話しです。

オルゴールの事も話しました、私も兄ちゃんもボロボロ泣いて、お義姉さんも泣いていました。
いつか、思い出になったら、またここに書き込みさせて下さい。


曲名を教えて下さって本当に本当にありがとうございました。



  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:47Comments(0)泣ける話

2010年03月08日

泣ける話 21 ペットにまつわる感動話

No.489 ペットにまつわる感動話 より


12 :わんにゃん@名無しさん :04/06/05 08:45 ID:jTVnt4kr

ウチのオヤジも猫嫌いだったなー。近くへ寄って来るとしかめ面で追っ払ってた。
オヤジは晩酌が日課だったんだが家族が食事が終わってもいつも一人で台所のテーブルで
飲んで居た。
ところがいつの間にか飼ってた猫がオヤジの足元でツマミの刺身を貰うようになっていた。
猫が無言で足元に座るとオヤジもナイターを見ながら足元に刺身をちぎって落としてやる。
猫もさも当たり前のようにむしゃむしゃと食ってた。食い終わってから猫はいつも一声鳴いてから
その場を去るようになった。
しばらくして猫は病気で死んだ。
猫がお骨になって帰って来た日も仕事から帰ったオヤジはいつもと変わらず晩酌を始めた。
お袋がいつものように刺身をツマミにオヤジに出した。
オヤジが意外な事を言った。「オイ、多いぞ。食い切れん。猫に供えてやれ」と。

それから一週間オヤジは同じことをお袋に言った。
いつも一人酒に付き合ってくれた仲間へのオヤジなりの供養だったらしい。

もうオヤジも鬼籍に入って久しいがオレのオヤジの思い出の一端。



82 :わんにゃん@名無しさん :05/03/18 16:08:49 ID:qnTwmz8k

11年前の2月、何も無い湖の駐車場でガリガリの猫が寄ってきた
俺たちの前によろよろと来るとペタンと腹をつけて座った

「キタねー猫だなー」と思っただけで他に何とも思わなかった
猫を飼っていた彼女がその猫を撫でながら言った
「ここにいたら死んじゃうね」
ヤングだった俺は頭にきた
「何、病気なのか?死ぬと分かってて放っておくのは殺すのと一緒だろ!何言ってんだオメー」
そのまま膝の上に乗っけて車を運転して帰った

顔は目ヤニだらけ、鼻水で鼻はガビガビ、尻から出てきた回虫が俺のズボンの上を這っていた
コホコホ咳をして、くしゃみで車のドアはベトベト、痰でゴロゴロいっていた
「どうするの、その子?」
「治るまで俺が飼う」
「じゃあ名前は?」
「うーん…痰が詰まってるから…痰助」
「変な名前」
「うるせー」
風呂場で綺麗に洗って、シシャモとちくわを食わせた、びっくりする位食った
獣医に連れって行って虫下しと風邪の薬を貰って帰った
もともと飼い猫だったようで、トイレは最初からできた
ペットが駄目なマンションだし、治って暖かくなったら逃がすつもりだったが、1週間で方針を変えた

あっという間に倍くらいに太り、夕方になると玄関で俺の帰りを座って待つようになった
当時は分からなかったが、そうとう歳をとった猫だった
すごい食いしん坊だったが、歯が何本も抜けていて、毛も艶が無かった、一日中じっとしていた、走ることもめったになかった
ちょうど1年後、痰助は死んだ

板で小さな棺を作り、痰助に出会った湖の桜の木の下に埋めた
 
今になれば分かる
出会った日、あれは痰が詰まってたんじゃなく、嬉しかったんだと

たんすけのおかげで、俺はすっかり猫バカになった
今俺は10歳の小吉と6歳の良男と暮らしている

今日も壁に掛かったコロコロのたんすけが行儀良く座って俺を見ている

変な名前付けて悪かったな、たんすけ
でも、今うちにいるやつらもみんな変な名前だから、勘弁しろよ



105 :パパ :2005/04/07(木) 07:01:09 ID:hkIiA9/j

昭和の終わり1987年の秋頃、
父親と同じ会社に勤める人の近所で子犬が産まれた。

最初に父親が子犬の話を持ってきたとき、
「絶対に世話をしないから」と母親は猛反対。
兄弟三人は「絶対に散歩するから」、
「エサ代出すから」と母親を説得した。

犬を貰いに行くとき、当時小1の末妹を含め父親と兄弟三人で行った。
自分は雌犬、末妹は雄犬が欲しかったが、二人でジャンケンし、末妹が勝った。
その雄犬は自分の手の中で眠りながら、家に来た。



106 :パパ :2005/04/07(木) 07:02:02 ID:hkIiA9/j

最初、犬の世話は兄弟三人でやった。
犬の名前をどうしようかと悩んで、一ヶ月近く名無しだった。
犬を飼うのが嬉しくて、学校から帰る都度、
兄弟それぞれが散歩に連れていった。
でも犬が大きくなってくると、母親が結局一人でやるようになった。

それから、10年近く、

2000年春に末妹は「犬の世話をする」と獣医学科に入った。
末妹の進路に大きな影響を与えたと思う犬は2003年秋に16歳で亡くなった。
貰われてきた時と同じく、自分の手の中で息を引き取った。

ラッキー、元気かい?
おまえの正確な誕生日を聞いておかなくて本当にゴメン。
おまえが夜泣きしてるときに、叩いて叱ってゴメン。
おまえがいなくなってから、みんな寂しいよ。
これからも家族みんなを見守っててくれ。



159 :ケイ :2005/05/12(木) 15:05:10 ID:bwuq6tvZ

私が物心ついた時から家にシェパードがいた。
名前はビル。近所に事件がおこったりすると警察がビルを借りにきたりしていた優秀な犬。
茶色の目でまっすぐな優しい目でいつも私の事みていてくれた記憶がある。
ビルは本当に大きくて、ビルと一緒にいると、大人しい私が何だか自分まで強くなるようで誇らしかた。
大好きで大好きでビルの小屋で一緒に寝たいと、両親を困らせた事もあった。
夏休み友達が遊びに来た時、些細な事でケンカしてしまい友達は帰ってしまった。
(お人形を頂戴といわれ断ったのが原因)
めったに吠えないビルの声が聞こえてびっくりして外にでた。

友達がビルに石を投げていた。走っていって友達を突き飛ばしてしまった。
ビルはその間ずっとほえていた。
幸い友人の怪我はうちみ程度ですんだが、当然私は両親と相手の両親からもこっぴどく叱られた。ただ、おばあちゃんは「○○子が理由もなくそんな事はしない」と言ってくれた。友達は複雑な顔でそっぽを向いていた。
次の日の夕方ビルの散歩に行った時、小川でビルが水を飲んでいるところをボ~っと座ってみていた。
ビルが隣に来ていつも通り横に座った。暑かったけど心地よくって離れたくなかった。
ビルの目の上には石をぶつけられた時の傷があった。



161 :ケイ :2005/05/12(木) 15:19:03 ID:bwuq6tvZ

悔しくて悲しくて涙が出てきた。大声で泣いてしまった。その時ずっと私のほっぺをなめていてくれた。
その時「もう大丈夫だから泣かないで」と誰かが言った。
びっくりして後ろを向いても、どこを見ても誰もいない。
ビルの顔をみるとジッと私を見ている。
又「大好きだから泣かないで」って聞こえた。
れから家に帰って父や母にこの事を言っても笑って信じてくれなかった。
おばあちゃんだけは信じてくれた。
私が大学に入って、しばらくしてビルは死んでしまった。老衰でした。
それから動物を飼うことはなかった。
今思うと子供の想像力か、単なる幻聴か情緒不安定な時でそんな声が聞こえたのかと思う時がある。
でも幻聴でもなんでもいい。私を励まそうとした事は確かだった。

大学を卒業し、普通に就職、そして結婚した。
今年の結婚記念日に主人がプレゼントを買ってきてくれた。
首にピンクのリボンをつけたシェパードの子犬だった。
あの目、ビルの目。大泣きしてしまった。
私の泣きっぷりに主人はびっくりしてたけど理由を話したら「大事にしような」と言ってくれた。
現在私のお腹には7ヶ月の女の子がいる。
二代目ビルとお腹にいる子供が良い関係になれたらいいと思っている。



61 :わんにゃん@名無しさん :05/01/08 07:17:07 ID:QokVWUb4

昔犬を飼ってた。確か柴犬だった気がする。
当時まだちっちゃかった俺にとって柴犬でも大きく見えてちょっとビビッてたw
でも今考えるととても温厚な犬で、吠えられるどころか顔をなめられた記憶がある。

このスレみててその犬のこと思い出しちゃったよ。

俺が4~5才くらいのときに死んじゃったんだけど、まだその頃は死ぬとか良く分かってなかったな・・
俺が覚えてる最初の犬だ、今度帰ったら手を合わせてこよう。

確かあのみかんの木の下だったな。



  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 16:40Comments(0)泣ける話

2010年03月08日

泣ける話 20 恋人からの大きな愛情を実感した出来事

No.490 恋人からの大きな愛情を実感した事 より


1 :恋人は名無しさん :2007/01/23(火) 16:27:09 ID:8O1hfy/10● ?2BP(4658)

恋人からの大きな愛情。
「ここまでしてくれるなんて…」と感動してしまったような素晴らしい出来事。




531 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 13:43:50

俺には3年付き合った彼女がいたんだけど、2年前のある日彼女が事故に遭いました。
(俺と会う約束をしてて青信号を急いで渡ってたら右折した車にはねられた。)

すぐ病院に運ばれた彼女はなんとか一命をとりとめたんだけど、生きてるのが奇跡ってぐらいの大事故で、
下半身不随、顔面マヒ、右足切断はのがれられない状態になってしまった。

だけど俺、馬鹿なことに彼女が事故にあったなんて全く知らなくて、彼女が事故にあった日も普通に家で彼女を待ってていつまで待ってもこないし電話も繋がらないからイライラしてたり心配したりしてた。

彼女の両親に連絡したら「今は家にいて勉強してる」とか言われるし、
「俺もう無理なのかな?なにか怒らせたのかな?」とか
へこみまくる毎日を過ごしていたある日、彼女からやっと一通のメールが。

『わかれよう』

見た瞬間「あぁ、やっぱり」って思って涙が止まらなかった。
電話をしてもでないし、メール送っても返事はなかった。



534 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 14:01:02

あれだけ仲よかったのに、こんな終わり方とかどぉなんだよ!
と毎日怒りと悲しみで荒れ狂いながら友達と失恋の痛みを癒すために朝まで飲み歩いていた。

半年ほどたったある日彼女の妹と偶然近所のコンビニで会った。(彼女とは地元が一緒)
俺の姿をみてビックリする妹に俺は笑いかけながら「元気?○○(彼女の名前)も元気にしてる?」と聞いたら、妹はうつむいて何も話そうとしませんでした。

「どしたん?」言いながら妹の頭を撫でてやると意を決したように
「お姉ちゃんのことまだスキ?」と聞かれました。
「めちゃめちゃ大好きだよ~」って苦笑いした途端妹の目に涙があふれでてきて、
「お姉ちゃんも●●(俺の名前)のこと大好きなん。●●を会わしたいよ」って泣きながら言われました。

テンパる俺に妹が涙目で見つめながら
「●●はどんな姿のお姉ちゃんでも好きですか?」と聞いてきた。

そして俺はやっと勘というものが働いた。
「○○になにかあった?」
ゆっくり頷く妹をみて俺の目の前は真っ白になった。



536 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 14:19:00

聞くと半年前、俺と遊ぶ約束したあの日に彼女は事故に遭った。
『わかれよう』ってメールは彼女に頼まれて妹が打って送ったという。

「お姉ちゃんは今右足ないし、ほとんど喋れないし、オシッコも一人でできないし、字もかけないし、ケイタイも触れない。
 でも●●からのメールや電話がある度に嬉しそうにしたり悲しそうにしたりしてる」と。

俺は本当に自分が馬鹿だと思った。
悔しくて悔しくて仕方なかったし、なんで第6感が働いて彼女の危機を知れなかったのか、
もっと彼女の状態を知ろうとしなかったのか。
本当に悔しくて悲しくてその場で号泣してしまった。

彼女の妹(あ、言い忘れてたけど彼女の妹は当時小4で、俺と彼女が19歳でした。)と喫茶店で色々話をした。
彼女の今の状態、今でも俺が大好きでよく泣いてること、
「こんな状態で生きてても辛いだけ、楽しくない」って何度も自殺未遂を犯したこと。

今の彼女の姿をみて俺は普通を装えるのか?
不安になりながらも俺は彼女に会う決心をしました。



537 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 14:36:13

病室に入るとそこは無人でした。
「この時間はお姉ちゃんトレーニングの時間だからあと20分ぐらいしたら帰ってくるよ」
妹が時計を見ながら言いました。

部屋を見渡すと、ベッドには俺との写真や、二人でUSJに行った時に買ってあげたぬいぐるみが飾られ、
カレンダーには俺たちが付き合った7日の所に赤でいびつな形のハートマークが書かれていた。
動かしにくい手を動かして書いてくれたんだなぁと思いながら、色々な所に目をやる。
部屋にはかすかに彼女の匂いがするような気さえした。

椅子に座って妹と話をしながら待つことにした。1分1分が物凄く長く感じる。
そして妹が言っていた予定時刻になった途端、ノックと同時に病室の扉が開いて車椅子に乗った彼女と付き添いの看護婦さんが現われた。

彼女が俺をみた途端動きが止まる。
俺は彼女に会ったら変わり果てた姿をみて泣いたり、ひいてしまったり、
普通に接することができないんじゃないかと不安だったけど
彼女を見た途端俺は嬉しくて嬉しくて嬉しくて気付いたら彼女を抱き締めていました。



539 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 14:53:35

抱き締めた彼女は折れそうなくらい細くなっていて、髪の毛からは俺の知ってるシャンプーじゃない匂いがしました。
でもすべてが彼女で懐かしくてたまりませんでした。

「なんで言ってくれんかったん!」更に力を込めてぎゅー!と抱き締めた。
「○○・・・」彼女が一声一声をしぼりだすようにして俺の名前を呼んだ。

彼女の顔を見ると、涙があふれていて、俺もつられて泣いてしまった。
・・・カッコ悪くてごめん。
気付いたら看護婦さんも妹も病室にはいなかった。
きっと気をきかせてくれたんだろう。
彼女の顔をマジマジとみる。
口が閉まらなくなってしまったようだが、目元や口元にあるホクロは俺のよく知ってる彼女だった。

そして彼女にキスをして、
「気付いてやれんくてごめんな、ホンマ大好きやからもう一回付き合ってください」
ってまた彼女を抱き締めました。

彼女は泣きながら何か言いましたが聞き取れませんでした。
俺が聞き返そうとすると彼女は無言で何度も頷いてくれた。

「どんな姿の○○でも俺には必要な子だからね、
 ホンマに付き合ってくれてありがとう!」
って言いながら彼女の涙を何度も拭き取りました。



543 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 15:51:12

で、俺たちは晴れてまた付き合うことができました。
足がない分俺が彼女の足になって支えるし、
Hはできないけどキスできるし彼女とまたこうして隣同士でいれて幸せです。

そしてついこの間、彼女がリハビリを受けてる間に机を開けたら一冊のノートがでてきました。

こっそり中をみてみると、どうやら字を書く練習をするためのノートのようで、一冊まるまる使いきっていました。
ガタガタの歪みきった字で『1』とか『2』とかいった数字や、『りんご』『あかあお』といった簡単な単語が並んでいました。
そしてどんどんとページをめくっていくにつれ、俺の名前をたくさん練習した形跡が。
『●●に会いたい』
『●●大好き』
『●●つらいよ』
『●●にあえなくてさみしい』
といった文章がたくさんでてきました。

離れ離れの間俺のことをこんなにも必要としてくれて想ってくれてたのかと思うと涙がでてきました。
本当に彼女に出会えてよかったです!
で、今自分を振り替えるためにこの話を打ちながら婚姻届を貰ってきました!
今から彼女に渡します!










557 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 21:22:32

彼女に婚姻届け渡してきました!
彼女は泣きながら喜んでくれました。彼女を抱き上げて一緒に喜びました。
彼女のご両親にも『大学を卒業したら是非』と承諾を貰いました!(俺は今4回生なんで。)

「●●は私なんかでいいの?私こんなんだよ?もっと素敵な人いるよ?」
って彼女があんまり不安そぉだったけど、
「いやいや、俺が○○じゃないと駄目やの。俺のワガママやの」
って返したら更に泣かれました(苦笑)

ちなみに俺たちは高校時代から付き合いました。
お互い両想いなのに気付かず、目が合うだけでドキドキした1年間を過ごし、
やっと勇気をだして告白したらなんと彼女も俺と同じだったんです。笑

付き合ってから毎週月水金は必ず手作りのお弁当を作ってくれました。
俺が受験の時は手作りのお守り作ってくれたり、
とにかく常に俺の側にいて俺を暖かい愛情で包んでくれました。
お互い実家も近いため、高校時代は彼女を自転車の後ろに乗せて毎日通学して、
まわりも公認のバカップルでした。笑
二人でフランス旅行にいくためにコツコツ貯めたお金も、
3年間で30万以上貯まりました。



558 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 21:30:06

だから結婚するのは当たり前だと思ってたし、彼女以外ありえないんです。
だからみなさんが俺のことを「すごい!」っていうけれど、ある意味俺のワガママなんです。(苦笑)

彼女の愛情がないと俺は駄目になっちゃう男なんです・・・笑
彼女と付き合い直して1年半がたちました!
俺が今彼女から感じてる大きな愛情は、
毎月の記念日に時間をかけて一生懸命書いた愛情たっぷりの手紙をかかさず貰えることです!











559 :恋人は名無しさん :2006/11/06(月) 21:34:07

>>558
スレタイ通りに彼女もあなたに対して感じてると思いますよ。


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 16:36Comments(0)泣ける話

2010年03月08日

泣ける話 19 嗚咽

No.491 嗚咽 その7 より


650 :威月 ◆KqZQ//HYDE :05/01/19 05:51:48 ID:l7flPOtp

9歳の時、お父さんが車を使い排ガス自殺した。
私はお父さんが遺書を書いていたところを見ていたのに、それと気付かず…

幼かった私はお父さんがうつ病だと知らずに、仕事を休んでいたのをズル休みだと言ったり、汚い言葉を吐いた。
でもお父さんは私を叱ることなく困ったように笑っていた。
「○○(名前)、お父さん体良くなったらステーキでもなんでも食べに連れていってやるぞ」
反抗期で機嫌が悪くなるとこう言って私の機嫌をなおしてくれた。

お母さんの作るレバニラ炒めが好きで、死ぬ少し前、夕飯の残りのレバニラ炒めを一人で泣きながら食べていた。
今思えば遺書といい、予兆はたくさん出ていたのに…
お父さん、ごめんね…私気付いてあげられなかった……。


今年6月、私はかなり年上の彼と結婚することになった。
お披露目もかねてお正月の挨拶に二人で実家に行った時、親戚のおばちゃんたちがくちぐちに
「利行(父)にそっくりな人だねぇ」
と。
…言われるまで気付かなかったよ…
思わずみんないるところで号泣してしまいました(´;ω;`)

お父さん、私あの人と幸せになるよ。
お父さんは私を絶対嫁に出さないって言ってたけどねf^_^;
でも、あの人は本当に私を大切にしてくれるから!
だからずっと見守っていて下さい…



695 :687 :05/01/29 02:45:44 ID:fiw2yBFJ

まず、俺の婚約に泣いて喜んでくれた友に感謝したい

11年も前になるが、俺には婚約者がいた
彼女は両親と姉を交通事故で亡くし、自身も聴覚と右腕に障害を負っていた
そんな境遇のせいか、俺と付き合っていた頃は暗くて泣いてばかりの記憶しかない
(彼女の同級生に昔の話を聞くと、明るい感じのイメージが残っているらしいが)

俺は当時、仕事がかなり忙しく、式の日取りとか決めなきゃなーと思いつつも
なかなか会えない日々が続いていた
たまにしか会えなかったが、会う度に嬉しそうな顔をする彼女が本当に愛しかった..

ある日彼女は失踪した

慌てて警察に届け出たが、対応は恐ろしく冷たかった
家族でない俺が届け出たことで、逆に疑われていたようだった
結局、今も彼女の行方は知れないままだ

失踪当初は警察への怒りで満ちていたが、時間が立つにつれ自己嫌悪にまみれていく
精神安定剤を飲んでいた事も知らなかった
いつも泣いていた彼女を支えられなかった

それからと言うもの、生活も荒み転職ばかりしていた
女性と付き合うのも怖いと感じるようになっていた
自分が許せなかったのもあるが、何よりも恋愛に傷つくのがとても恐ろしかった

あれから11年。友の叱咤激励に押され、ちょっとづつではあるが気持ちの整理がついたと思う
新しい彼女との婚約を友に報告すると、

「お前は色々苦労したからな、幸せになれ」

と泣いてくれた
なんでお前が泣いてるんだよ! と思ったが、もう涙でそいつの顔見えないや

なれと言われるまでもなく俺はもう幸せです。

あと、4年前と2年前に死んだ、お袋と親父に
「孫の顔見せられなくてごめん。でも俺なんか幸せかも」



712 :大人の名無しさん :05/02/02 18:46:14 ID:jWN7gCbd

俺が小3の時、ガンを患っていた母が亡くなった。
それから父は、俺と当時2歳だった妹の世話をすることになった。
慣れない家事と仕事の両立に父は懸命だった。
当然遊び盛りだった俺も否応なく、家の事を手伝わせられた。
なぜ母を奪ったのかと、ずっと己の不幸を呪い、この世に神様はいないと天を恨んだ。

やがて幼かった妹にも手がかからなくなり、俺は高校へ進んだ。
学費はバイトを始めることで何とかなった。

ところが妹も小学校の高学年に進み、胸が膨らみ始めた。
これまで恥を忍んで妹の下着を買って来た父も、ブラジャーなど買った
ことがあるはずもなく、途方にくれていた。
そんな時、俺にバイト先で知り合った彼女ができた。
事情を話すと、彼女は妹と一緒に下着を買いに行ったり、生理用品の事など、なにかと妹の面倒を見てくれた。


当初戸惑っていた妹も、やがて彼女を実の姉のように慕うようになった。
彼女が遊びに来て4人で食事をしていた時、母が死んで以来やめていた酒を父が久しぶりに飲んで酔っていたのをはっきり憶えている。
俺は亡くなった母が彼女と俺を引き合わせてくれたのかと、神様に深く感謝した。

母がいないことをのぞいて、やっと普通の家庭とはこんなものなのかと思える日々が訪れた。
そして社会人となった俺は彼女と結婚した。父と妹も、もちろん祝福してくれた。
父は定年退職したが、子会社のちょっとした役職で再雇用して貰えたと嬉しそうに話していた。


そんなある日、高校生になっていた妹が突然交通事故で死んだ。
葬式の数日後、父は会社に辞表を出し、俺は悲しみで何をする気力もなかった。

妻は父と俺のそんな気持ちを察してか、
妹の遺品を全て処分しようとして妹のタンスから
最初に買ってやったブラジャーを見つけて、泣き崩れた。

あの日から、俺は神も仏も信じられなくなった。



790 :大人の名無しさん :05/02/20 12:08:16 ID:GpnFoYJu

うちのかーちゃん 
おやじの酒乱で離婚 
以後3人の子を一人で育てる 

姉貴二人遠くに嫁ぐ 
俺とかーちゃん二人暮らし
かーちゃん 
酒を飲むようになる 
度を越すようになる
俺に怒られるから隠れて飲む。
友達から「電話したらお前のかーちゃんまたよぱらってたぞ」と言われ 
怒ってかーちゃんを蹴っ飛ばす 
「クソババー てめー電話出るなこの!!」
「お母さん飲んでないよ」
ろれつが回らない言葉で俺に許しを乞う 
それを聞いてまたかーちゃんの頭を思い切りひっぱたく

そんな日が続いた

結婚が決まった 
嫁と2人きりで海外で挙げた。
かーちゃんには式の写真とビデオをやっただけ 
嫁にも極力合わせないよーにしてた 

別々に暮らして半年 
ある日夜遅く保険の証書を取りに実家に帰ると真っ暗な部屋の中 
テレビのあかりだけ 
その前にかーちゃんがボーッと正座していた 
「こんな夜中に何やってんのよ
 またさけ飲んでるのかこの野郎っ」
叩こうと思ってふとテレビを見ると 
俺の挙式のビデオだった   

「叩かないで
 ごめんね
 ごめんね」
  
ろれつが回らない言葉で這いつくばって懇願するかーちゃん 
俺はぼーぜんとした

毎晩一人ぼっちでこのビデオを見てたのか・・・
ごめんねお母さん 
本当にごめん。もう叩かないから
来週嫁さんと一緒にどっかおいしいものでも食べに行こうよ。














昨日の晩 
母と嫁と食事してきました。

「嫁さんが母さんとメシ一緒に食べたいんだってさ」

って言ったら喜んでた。自分がビール飲みながら
「母さんも1杯どう?」
て言ったら
「私はいいから」

って・・無理すんなよな 
嫁に嫌われたくないのだろうか

一生懸命嫁に俺のこと頼むって 
優しい子だからって 
親バカだなー

嫁さんニコニコして頷きながら聞いてた。
母さん嬉しそうだった。



896 :大人の名無しさん :05/03/08 10:32:35 ID:B2ZTecn2

小学校入学を控えた長男のもとに、新しい学習机が届いた。
無邪気に喜ぶ長男は同じ歳で白血病になり天国に行ってしまった実弟と
同じ笑顔をしていた。

涙が止まらなかった。わあわあ声上げて泣いた。




897 :大人の名無しさん :05/03/08 12:05:52 ID:x/fgHAEW

>>896
あなたは女性(姉の立場)ということでよろしいのでしょうか。
いえ私も姉&弟の構成なので…
もし自分だったらどうだろうと我が身を重ねてしまいました。

あなたの弟さんを思う涙とお気持ちはきっと天まで届いていますよ。




898 :896 :05/03/08 17:30:04 ID:B2ZTecn2

>>897さん
レスありがとうございます。恥ずかしながら、また泣けてしまいました。
私は姉の立場になります。
といっても、6年しかねーちゃんやらせてもらえなかったんですけどね……。

弟とは年子なので1歳違ってたんです。私は弟のことが大好きでした。
入院したのは小学校入学して最初の夏休みからでした。
母からは「長い風邪だ」と聞いてたんで、すぐ治ると思ってましたが
よく考えれば母はもうその時に病状を知っていたんでしょうね。

入院中に母に買ってもらったアニメのまくらを、弟は
「これねーちゃんが好きだから、ねーちゃんにあげて」って言ったらしいんです。
まくらをもらったとき、私は弟に
「お返しに退院したら大好きな超合金のおもちゃをおこづかいで買っちゃるね」
って約束していたんです。弟はとても喜んでいました。
でもその約束は果たせませんでした。退院したらじゃなくて、すぐ買えば良かったです。
当時小学2年生の私は「入院しても必ず退院できるもの」と思ってましたから……。

来週にはランドセルが届きます。その時また泣くんでしょうね。
だって息子…… 弟にすごい顔が似てるんですもの。




899 :大人の名無しさん :05/03/08 17:34:46 ID:3RHg1b5M

>>898
ねーちゃん大好きだから生まれ変わったんだよ。
今度は楽しい思い出いっぱいいっぱい作ろうね!



900 :896 :05/03/08 17:46:01 ID:B2ZTecn2

>>899さん
ありがとうございます。勿論、息子達(2人いますが)とは
弟の分まで精一杯幸せになってほしいし、楽しい思い出を
家族で作ろうと思ってます。

あと…… 母にも一杯親孝行したいです。
今になって、看病してる母がどれだけ辛い思いでいたか分かったような気がします。
以前
「○○と××(長男と次男)に遊べるおもちゃいっぱい段ボールにしまってるけど、
なかなか開けられんのよね」

といったときの、寂しそうな表情が忘れられないんです。

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 16:32Comments(0)泣ける話

2010年03月08日

泣ける話 18 家族との思い出②

No.495 思い出してホローリくる家族との思い出Part2 より


529 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/05/21 22:44 ID:???

高校時代、母親が嫌いでした。
嫌いというか、うざったいというか、まあそんな感じで。
特に受験期なんて「うるさい。默って。」位しか口にした覚えがないです。

そして、大学に受かって、一人暮らしを始めて2年半位。
いい加減反抗期(?)も過ぎて、どうにかコミュニケーションをとろうとしていた時期。
実家の妹からの電話で、どうも母親の調子が悪いということを聞きました。
私は、母と電話を代わって貰い「早く病院行って見てもらいなよ」と言いました。
家族らしい会話の仕方が分からなくて、凄くたどたどしい言い方だったと思います。
母は「病院に行って、もし入院でもさせられたら嫌じゃない」と言って笑っていました。
ちなみに、妹に聞いたところによると
母は「『お姉ちゃん、急に良い子になってびっくりした』って言って笑ってた」そうです。

それから何ヶ月後の年末、久しぶりに私は実家に帰りました。
出迎えてくれた母の顔がいやにこけていて、見た瞬間恐怖を感じたのを覚えています。
「まさか」とか思いつつ、その正月は父が、私と妹にお年玉を渡すのと一緒に
母にペンダントを贈ったりして、凄く「家族」というものを実感した数日でした。
父が母に何かを贈るのなんて初めて見たんです。

そしてその年の4月11日23時半くらい、父からの電話で、母が亡くなったことを知りました



530 名前:529 投稿日:02/05/21 22:45 ID:???

本当は全然急じゃ無かった筈なんですが、その時の私には急で、全然実感が湧きませんでした。
その日は遅かったので、寝て、起きて、準備して、電車に乗って、
ホントにその間、泣きもせず、喪服が無い…なんてことを考えていました。

でも、実家のある駅まであと10分位になった時、急に
「次に帰ったら、グラタンとロールキャベツ作って貰おう」
と思っていたことを思い出して、そしたら馬鹿みたいに涙が出てきました。
悲しいとか淋しいとか後悔とか、全部いっしょくたになって。

母は、その頃もう、滿足に食事をしたり、歩いたりも出来ないくらい悪かったそうです。
父は、同じ家にいた自分が助けてやれなくて、と泣きました。
私は、そんなこと、全然知らなかったんです。

あれだけ兆候はあったのに、どうしてもっと気にしてあげられなかったんだろう。
私は、ひねくれたまま家を出てそのままで、「ありがとう」の一言も言ってないです。
高校時代、ずっと酷いことしか言わなかったこと。
それでも母は一度も本当に怒ったりしなかったこと。
私が母の体を心配した時の母の言葉、手料理、小さい頃抱きしめて貰ったこと。
ふとした瞬間に思い出して、泣きたくなります。



738 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/06/17 22:19 ID:KNaJf8JV

高校を卒業して初めての一人暮らしへの旅立ちの日の朝。
私は前の日に原因は忘れちゃったけどささいなことでお父さんと喧嘩してた。
それでもおばあちゃんに
「お父さんに一言くらいは何か言っていきなさい!」ってうるさく言われて
ちょっと気まずいながらも洗面所で顔を洗ってた父のもとへ。
それでも意地っ張りな私は何ていっていいか分からず、一言
「・・・行って来るね。」ってぶっきらぼうにつぶやいた。

父は何も言わなかった。でも、洗った顔をタオルでごしごしこすりながら
目を真っ赤にしてるのを見たとき、初めて父が泣いてるのに気づいた。
何も言わなかったけど、お父さん実はすごく淋しいんだろうなーって思ったら
私も駅までの道で涙を抑えずにはいられなかった。



799 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/07/23 01:32 ID:tHmWWTGI

小さい頃から無口で無愛想でたまに喋っても何かと理屈ばかりの
いわゆる理系の人間で俺のことに関しては何も言わず無関心ぽい感じだった。

精神論て概念なんぞ何一つ持ち合わせてないロボットみたいな父親だった。
そんな父親の背中を見てきたせいか俺は友達も少なく、外にも出ないので
激しく世間知らず、と自分で言うのもなんだけどかなりのダメ人間だった。

そんな俺は18になって本格的に自分を変えようと父親に「東京の大学へ進学する」と言った時
てっきり、しっかり勉強しろよとかロクでもない事言うのだろうと思ってたら
「自分の目で都会をしっかり見て来い」と言った。
なぜか涙が止まらなかった。

あとから母に教えてもらったけど俺の大学進学費用をかなり貯めていたらしく
俺の知らない学資保険まであった。地元の大学なら余裕でおつりが出るくらい。
俺が都会の大学に進学するだろうと、父親が車も買わずにかなりつぎ込んでたらしい。

てっきり無関心かと思ってたらちゃんと俺の事を考えていてくれた事が分かって今頃感動してしまった。



916 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/09/16 20:51 ID:QtfVTqYI

妻と結婚する前、THE BLUE HEATSのライブを見に行った。
まだその頃はあまり有名ではなく、俺はあんまり乗り気じゃなかった。
しかし、そいつらの姿を初めて見た時はびっくりした。
そこら辺のダメ人間の集まりみたいな奴等だった。
しかし、その格好とは裏腹に心に残るなんとも言えないメロディーに俺は魅かれた。

二年後、結婚して息子が生まれ3人でまたライブを見に行った。
その時の最後に歌ったリンダリンダがとても印象的で、俺はわけも分からず涙を流した。
それから3ヶ月後、妻は交通事故で急逝した。

俺は半場ヤケにながらガムシャラに働いた。
息子が母親がいない事を馬鹿にされない為に料理も母に簡単な物を教わり寂しくない様
なるべく家にいるように心がけた。
息子も気を使ってくれ、俺に文句は一つも言わなかった。

今年息子も中学生なり、だいぶ手が離れ俺はゆとりを持てるようになってきたある日
飲んで帰ってきた時、頭にあの歌が響いてきた。

幻かと俺は思い辺りを見回した。
すると、息子が大音量で物いれから引っ張ってきたリンダリンダを聞いていた。
息子がライブの事を覚えてる訳はないのだが俺はたまらなく悲しくなってきて、家を出て近くの公園で泣いた。



881 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:02/09/06 19:01 ID:ZXug+wTu

母の余命が長くても3ヶ月と言われた頃、一週間の休みを貰って地元に帰った。
母の最期の外泊許可が出て姉の家にみんなが集まった。
母は座っているのも辛いようで、ずっと横になってばかりいた。

地元に帰る前、どうしても母の作ったおにぎりが食べたいと思っていた。
最後になるだろう母のおにぎりを味わって食べようと思っていた。
別におにぎりが好きな訳でも、思い出がある訳でもない。
ただ無性に母の作ったおにぎりが食べたかった。
でも横になってばかりいる母を見て、とても言い出せなかった。

3時頃、お腹がすいたので「なんか腹減ったなー」と独り言を
言ったら母は立ち上がり、なんとおにぎりを作り出した。
どこか痛いのか、顔をゆがめながら作ってくれた。
食べながら涙が出てきた。止まらなかった。

甥っ子が俺の方見て「からいの?」なんて聞いてきたら笑いながら号泣した。
母は作り終わった後、相変わらず横になって苦しそうにしていた。

それから2ヵ月後、母は亡くなった。
俺の子供の顔を見ることも無く。
何が言いたいのか自分で分からなくなってきた。

親孝行したい時には親はなし

親孝行したいと気付いた時にはもう遅い


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 12:19Comments(0)泣ける話

2010年03月04日

泣ける話 17 家族との思い出

No.496 【再度】思い出してホローリくる家族との思い出part4 より


80 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:03/01/08 22:22 ID:lZJR3zys

正月に帰省して両親を回転寿司に連れてった。いままで帰省しても
地元のツレと遊んでばかりで、親にはかまってやることが無かった。

もう働いているのでお金には困ってないから「好きなもの食え」って
言っても、安い光り物しか食わないんだ。しかもちょっとしか食べない。
帰りに、久しぶりに昔すんでた家の近所を通りがかり、地元の神社へ。
20年ぶり位に親と初詣行ったよ。

帰宅してからも「今日のおすしは美味しかった」と何度も何度も言うお袋。
今までかまってやらなくてゴメンナ。ウルセーなんてもう言わない。
この先あと何回連れてけるかわからないけど、長生きしてくれ。



188 :おさかなくわえた名無しさん :03/03/17 10:19 ID:alvt3/6Z

小学生のとき。
2歳年下の弟が肺炎で病院へ。
「あと2時間遅かったら死んでいた」と医者に言われた。

今お互い三十を過ぎて、それぞれ家庭ももって、それほど裕福じゃないけど
幸福だなと思う。
けんかもたくさんしたが、本当に生きていて暮れてよかったと思う。
年に数回しか会わないけれど、会うたびにちょっとホローリしそうになる。



465 :おさかなくわえた名無しさん :03/06/20 11:32 ID:DV8/k5Fx

つい3~4日前の話です。おじいちゃんが肺の病気で死んじゃいました。
いっぱい泣いて涙も枯れたころ、おじいちゃんの妹さんから話を聞きました。

「あんた(僕のこと)が小学校2年の時ににね、おじいさんと車に
乗ってる時に『止めてー!』って叫んだんだって。それでおじいさんが
『どうしたんや?』って聞いたらあんたが『じいちゃんにタバコを買ってやる』
って言って一番高いタバコを買ってあげたんだって」

神棚にはいつもおじいちゃんの大事にしてたタバコ(ラッキーストライク)
の空箱がありました。おじいちゃんは僕が小学校2年の時に買ってあげた
タバコの箱を後生大事に持っててくれたんです。11年もの間、取っておいて
くれたおじいちゃん。そんなに高い買い物じゃなかったのに、本当にうれしそうな
顔をしてた。。。いつもタバコをしぶーい顔でふかしながら畑で野菜を作ってた
おじいちゃん。思い出が洪水になって押し寄せてきて涙が止まりませんでした。

僕はタバコを吸いませんが、ポケットには280円のラッキーストライク
が入ってます。タバコの煙は臭いけど、おじいちゃんの思い出が一緒に
ふわふわ浮いてるような感じがするから嫌いじゃないなー。

ありがとう、おじいちゃん。またお墓に線香代わりのタバコ持っていくよ。



623 :おさかなくわえた名無しさん :03/07/13 23:32 ID:839LKFxI

何か・・・思い出した

あれは、幼稚園くらいの時だったか・・・
お盆に、初めて母方の婆ちゃん家に親抜きで泊まることになったのね。
従兄弟たちも来ていて、昼間は近くの神社ですっげぇ遊んださぁ・・・

明日も「忍者ごっこ」をしようってことで、すげぇ楽しくてさぁ、
その夜は、従兄弟たちと雑魚寝さぁ・・・

でもなぁ、何故か目が覚めちまうんだよ。何か、寂しいのか、悲しいのか。
婆ちゃん家に着く直前に母と行った喫茶店のこととか何故か思い出されてさぁ
何故か泣いてんのよ、ずーっと泣けてくるの
おかしいなぁ、明日も楽しいはずなのになぁ

そんで、もうどーしようもなくて、隣で寝てる婆ちゃん起こしたわけよ
多分0:00は過ぎててさぁ
今思うとすげぇ迷惑

そんでも、ウチの母は来てくれたね、車で40分くらいか・・・
母に連れられて、実家に帰ってやっと寝れたわけさ
何か、安心した

まぁ、次の年からは、ちゃんと「お泊り」できたけどね

いやまぁ、なんてことない話なんだけどね
このスレ読んでてさ、自分にとっての家族を考えてたら、思い出した

いやぁ、自分は随分とマシな暮らししてるのかなぁ



702 :おさかなくわえた名無しさん :03/08/28 02:10 ID:NkHmkzoz

母の葬式の時、祖母(母の実母)は「親が子供を送ってはいけないんだよ」と言って、
斎場から火葬場への車に決して乗ろうとしなかった。
俺は子供ながらにも疑問に感じ、「何で?何で?」と泣きながら何度も聞いた。
でも、無駄だった。

祖母は、お嬢様育ちで、おっとりした鷹揚な人だった。
それに対して、母は、所謂「いらち」で、ヒステリックなタイプだった。
母は、祖母のやることなすことにイライラしどうしだったし、
祖母は、母の監視・小言を持て余していた。
よく喧嘩もしていた。

母が息を引き取った時も、通夜・葬式でも、祖母はまったく涙を流さなかった。
だから、この時も、「ママのこと、そんなに嫌い?おばあちゃん、冷たいよ」と思った。

でも、見てしまった。
火葬場から帰って来た時、祖母は母の遺品(というより、入院中の荷物)を整理しながら、
家の中で、一人泣いていた。
当たり前なんだけど、祖母にとって母は娘だった。

あとで聞いた話だが、
子供の俺のことを思うと、俺の前では泣いてはいけないと思った、と祖母は言った。
今でも、「親が子供を送ってはいけない」という決まりがあるのかどうか、
定かなことは知らない。



881 :おさかなくわえた名無しさん :04/01/08 21:58 ID:YtJ/D0wh

今日、じいちゃんとばあちゃんにお年玉を貰う
無職の俺にとってはありがたいことだ

じいちゃんは
「早く就職せえよ」と言いながら一万五千円

ばあちゃんは
「まあ、急がんでええから」と言いながら一万円くれた

でも、何故今日貰ったんだろう
いつもじいちゃんとばあちゃんの家にいるから元旦に貰えるはずなのに・・・

と考えてるところで目が覚めた

そうだった。
じいちゃんもばあちゃんももう亡くなってたんだった
だからお年玉も貰えないんだ
貰うときにふと感じた違和感はこれだったんだ


でも、ありがとう
大事に使うよ



  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 14:23Comments(0)泣ける話

2010年03月04日

泣ける話 16 嗚咽

No.497 嗚咽その10 より


14 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:13:22 ID:mSy5QmK0

俺を生んでくれた母親は俺が2歳の頃に死んだ。

後の親父の話では元々、体が丈夫な人じゃなかったらしい。
俺が6歳の頃に親父が再婚して義母がやってきた。

ある日、親父が「今日からこの人がお前のお母さんだ」といって連れてきた。
新しい母親は俺を本当の子供のように可愛がってくれた。

家族とか血縁とかまだ分からない頃の俺にとって義母が本当の母親だった。
それから、何年か経ち俺が中学の頃、今度は親父が事故で帰らぬ人となった。

親父の葬式の席で親族が集まりこれからの俺たち家族の事で話し合うことになった。
親父の両親(俺から見て祖父母)は既に無く親戚づきあいも疎遠で葬式には親父の親族は誰も来なかった。
後から知った事だが親父はガキの頃に両親を亡くし親戚中をたらい回しにされ。
おまけにひどい扱われようだったらしい。
そんな事もあり自分が大人になって働き出してからは一切、縁を切っていたらしい。
まあ、そんな状況もあり今後の俺たち親子の事を生母、義母側双方で話をする事になった。

元々義母の両親は義母と親父との結婚に反対していた。
まぁ親としては娘の結婚相手にコブ付きだとやっかむの当然かもしれない。
また生みの母の両親は、まだ若い義母の事を考えて俺を引きと取ると言い出した。



15 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:16:04 ID:mSy5QmK0

双方の親の利害が一致して俺は生母の家に引き取られると決まりかけた時。
それまで双方の話を聞くだけだった義母が口を開いた。

「この子は私の子です。例え血が繋がって無くても私の子供です!」
「お願いですから、この子は私に任せてください。」

物腰の柔らかい義母が珍しく語気を荒げていた。
出会ってからはじめて見たそんな義母の姿に俺は驚きを覚えた。
最初は難癖を付けていた双方の両親も最後には義母に折れる形となり。
俺は義母と二人で生活することになった。
稼ぎ頭の親父が死んで義母は必死で働いた。
受験で大変な時期の俺を育てる為に必死で働いてくれた。

高校3年の時、俺は家の事情もあり進路は就職すると決めていた。
しかし、その話を聞いた義母は

「大学に行きなさい。」と言った。
「お金は母さんが何とかするからあんたは大学に行きなさい。」

なんで、実の息子でも無いのにそんなに俺に一生懸命なんだろう?
俺は半ば呆れながらそんな義母の言葉が嬉しくて思わず泣いてしまった。

そんな義母の言葉に背を押され少し遅れて受験勉強。
家の事情を考えると浪人は出来ないし、そんな事で義母を落胆させたくなかった。
元々、勉強は出来るほうじゃないので入れた大学も大した大学じゃなかったが
それでも合格と聞いた義母の涙混じりの笑顔は今でも忘れられない。



16 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:17:12 ID:mSy5QmK0

大学に入ったが俺は生活費分ぐらい自分で何とかしようと決めていた。
高校の時もそうだがアルバイト三昧の日々で良く留年しなかったものだと今でも不思議に思う。

大学も何とか無事に四年で卒業が出来、就職も決まり俺は晴れて社会人になった。
最初の初任給で義母にプレゼントを買った。
さすがに俺のプレゼント(たいしたもんじゃないけど)には参ったのか
ありがとう、ありがとうと言いながら泣く姿に俺も思わず貰い泣き。
ほんと、感謝しなきゃならないのは俺の方です。

それからは二人でつつがなく暮らしていたが、俺も30の手前で結婚したい相手が出来た。
最初は俺の結婚を義母がどう思うかと思っていたが大喜びで歓迎してくれた。

「あんたもこれで一人前だね」
と言われて照れくさいやら恥ずかしいやら。最初は一緒に暮らそうと言ったが
「お嫁さんに悪いから母さんはここで暮らすよ」と断られる。

いやいや、かみさんも賛成してくれてるんだけど...。
何度か話はするもののの結局、離れて暮らすことに。

でも、結婚して一年経って義母が倒れた。
幸い大事に至らなかったが、今後、同じ事が有ってもいけないと思い。
断っている所を半ば強引に同居することに。
その間、孫の顔も見せることが出来たしかみさんとも上手くやってるしで本当に幸せそうだった。

でも先月、その義母が他界。
くも膜下出血であっけなく死んでしまった。

通夜の席でかみさんが義母の話をしてくれた。
正直、この年になるまで義母のそれまでの人生を聞いたことが無かった。
かみさんは義母から色々、聞いていたらしい。



17 :大人の名無しさん :2006/12/05(火) 02:18:08 ID:mSy5QmK0

義母は親父と結婚する前に子供が生めない体だったらしい。

最初はそんな事もあり結婚を断っていたそうだが、親父はそんな事情を承知で

「俺たちには子供がいるじゃないか、俺の息子の母親になってくれないか?」
の言葉に義母は涙ながらに承諾

親父も人前も憚らず泣いていたそうで。義母曰く
「あんなみっともないプロポーズは無かったけど嬉しかった」との事


その話を聞いて俺はやっと理解できた。


そして言葉にならなずに涙だけが溢れて仕方が無かった。
今までかなり泣いたけど息が苦しくなるほど泣いたのは初めてだった。
ぶっきらぼうな親父の優しさもそうだが親父のプロポーズを最後まで純粋に受け入れた義母に
言葉に出来ない思いがこみ上げてきた。

かみさんもそれ聞いた時は涙が止まらなかったそうで俺に話しながらまた号泣。
子供たちも泣いてる俺たちを見てつられて泣き出す始末。

義母いや、母さん、血は繋がってないけど貴方は俺にとって本当の母さんです。
生みの母には悪いけど、俺にとって貴方以上の母はいません。


親父、そっちで会ったら誉めてやってください。
貴方が選んだ人はとても素晴らしい人でした。

最後に母さん、もし生まれ変われるならまた貴方の子供に生まれたい。

今度は貴方の本当の子供に生まれ変わりたいです。
突然に逝ってしまって改まって感謝することが出来なかったけど、本当にありがとう。


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 14:18Comments(0)泣ける話

2010年03月04日

泣ける話 15 涙が出るほどいい話

No.498 涙が出るほどいい話 より


601 :癒されたい名無しさん :04/08/25 15:23 ID:md/Yp+Xl

俺の会社の友人。
4年ほど前に交通事故で奥さんと当時4歳の長男を亡くした。
飲酒運転の車が歩行中の二人をひき殺すというショッキングな内容で、ワイドショーとかでも取り上げられたほど凄惨な事故だった。

後日談を聞くと加害者の家族もかなりつらい日々を送ったようで、今となっては同情はするが、
当時は友人の悲しみよりも加害者への怒りが大半だったのを憶えてる。
まだ娘(当時1歳)がいたことがせめてもの救いだったけど、葬儀に出席した会社の女の子なんか、
その娘の顔を見るなり泣き崩れてたよ。

その後仕事も辞めようと思ったらしいが、娘のためにと仕事には復帰。
しかしその後の育児、仕事などは大変だったと思う。
俺もそうだが会社やご両親、ご近所さんも含めて何かと気に掛けて助けられることは助けてきた。

で去年、そいつが事故後初めて家に招待してくれて、数人で一緒に鍋をつついた。

そしてある和室を見せてくれたんだけど、その部屋だけはまったく片付けてなく洗濯物とか黄色くなってたたんであるまま。
透明の衣類ケース?みたいのやおもちゃも無造作に置いてあって、奥さんと長男が最後に使っていた部屋ということで当時のまま残してるとの事。
で、気丈なそいつも、今でもその部屋を見るととても直視できない状況で、俺らに説明しながら涙があふれてきてる。

そしたら娘が来て、笑いながら
「お父さんがんばろうね。裕太くんが見てるもんね。」って言うんだよ。

裕太ってのは長男の名前なんだけど、当時のことなんか娘は知るよしもないわけで、つらい事だけど娘にはちゃんと説明してるんだよね。
二人でお母さんやお兄ちゃんのことを忘れないで、そうやって声を掛け合ってるわけよ。

励まそうと思ってやってきた俺らだけど、逆に力をもらったよ。
酒が入ってたのもあるけど、どんどん涙が出てきて・・・泣いた。

みんなもがんばれよ



656 :コピペ :04/09/05 21:43 ID:HTzNbDxE

ホームに滑り込んできた電車に飛び込もうと身構えた

その瞬間、隣のOLが先に線路めがけて飛び込んだ。
あっと言う間の出来事だった。
思わずそれに続いて俺も飛び込んだ。
急ブレーキをかける音が駅一帯に広がった。
ほんの数秒間ホーム全体が静寂に包まれた。
少々のかすり傷で俺と彼女は救出された。
またたく間に拍手と喝采で周りはにぎわった。

あれから5年後俺達は3人の子宝に恵まれ
ささやかながら幸せな毎日を送っている。

俺の妻となった彼女には、あの日自殺を図ろうとホームに
立っていた事は冥土の土産にする予定だ。

今は妻に俺の命を救ってくれたことを心より感謝している。



370 :名無しさん@お腹いっぱい。 :04/07/23 11:03 ID:XBAS2ClT

うちの親達、漏れが生まれてから
休まずにもう30年以上、夫婦で食い物屋をやってるんだ
その間、人に騙されてかなりの額の借金を背負ったりして
本当に苦労ばかりしててね

でも、人をうらんだりする姿なんて二人とも一度も見せなかった
そして漏れら兄弟数人の事、大事に育ててくれたんだ
いつも働きづくめで金策で泣きそうになってたはずなのに

自分が大人になった時に、父親がこう言ったんだよ
「人間はね、お金じゃなくて、人や気持ちが財産なんだよ」って

年に2~3日しか休まず長い間ずっと頑張ってきた事
それだけでも本当に尊敬してるのに
金関係でかなり苦労もしてきたのに
人に騙される事も何度もあったのに
こういう風に言える親を、漏れは心から尊敬してる



631 :癒されたい名無しさん :04/09/04 01:13 ID:u4/w7n12

俺は数年前、仕事で躓いて自暴自棄になっていた。
毎日家では文句を言い、両親にあたり散らして、なにもかもヤケクソになりどんどん荒んでいった。

そんなある日、嫁いだ姉が日帰りで来たみたいだったが俺は帰宅が深夜になって会わなかった。
そして自分の部屋の戸を開けたら手紙と俺の好物のお菓子が置いてあった。
手紙には「なんか仕事が大変みたいだけどこれでも食べて元気をだしなよ。」
さらに手紙の最後に「会社なんかに負けるな!!ガンバレ!!」と書いてあった。

いつも生意気な口ばかりきいていて、結婚が決まった時はもちろん、嫁ぐ時だって照れくさくて
「おめでとう」すら言ったかどうかも記憶にない俺のことを心配してくれていたと思うと涙が出た。

このことは一生忘れない。



632 :癒されたい名無しさん :04/09/04 01:31 ID:aKZ5XXWY

うちの母は、小さい頃から「人のためになることをしろ」と子どもに教えてきたのよ。
だから、大人になってなんの疑いもなく骨髄バンクに登録したんだ。
知らせたら「それはいいことだね。いつか提供できるといいね」と言っていた。

で、ドナーに選ばれてさ。
「その人が元気になれるといいね。登録しててよかったね」
と母は言っていたわけよ。自分でもそう思ってた。

ところがですよ。いざ、提供の最終同意の段になったら、ものすごく険しい顔で
「心配なんです。後遺症が残るんじゃないか、本当に無事に終わるのか」なんて言い出した。
何言ってんだよ。俺が登録するって言った時も、ドナーに決まったって言った時もずっと賛成してたじゃんか。喜んでたじゃんか。

そう言ったら、言うわけよ。
「心配なんだよ、親なんだから。お前が心配しなくていいって言ったって、親なんだから心配するんだよ!」
だから、俺は言ってやった。
「極当たり前に、人のためになることをしようと思えるように俺を育てたのは母さんたちだろう。心配ないよ、絶対大丈夫だって」
それで、提供の入院するときも、完全看護なのに毎日見舞いに来てくれてさ。
いらないって言ってるのに、心配だから行くんだって怒るんだよ。
まったく、勝手だよな、親ってさ。

で、無事に骨髄採取してさ。そしたらさすがにショックで血圧下がって、氷みたいに体が冷たくなっちゃってさ。
電気毛布とかかけられて寝てるとき、母が手を握り締めてきて、言うのよ。
「無事に終わってよかったね」
手が、ものすごくあったたかった。 きっと、あのあったかさは忘れない。



44 :名無しさん@お腹いっぱい。 :04/04/27 20:51 ID:r6n5n5mV

父が死んで一年になる。
父は母の再婚相手で、俺が小学生の時に突然父親になった。

当初は「父さん」と呼べず、悲しい思いをさせたかもしれない。
「○○(父の名)さん」と息子に呼ばれるのはどんな気持ちだっただろう。
息子に「本当の父さんじゃないくせに!」と言われる父はどんな気持ちだっただろう。
毒づき、当たり散らす息子にとても手を焼いていたと思う。

俺が中一の時に事故で両足を折ってしまい、歩けなくなったときがあった。
その時期に期末テストで、追試はほぼ決定だと思っていた時、父がおぶって学校まで連れて行ってくれた。
学校に近づくにつれて他の生徒の好奇の目に晒されている気がして、俺はとても恥ずかしくなった。
実際中一にもなって父親におぶられている俺をクスクス笑う女子もいた。
そんな折、ふと父の顔を背中越しに見ると、とても堂々としていた。

「自分の息子をおぶって何が悪い?」今にもそう言いそうな表情で。

謝罪も感謝の言葉も贈れないまま、父はもう二度と会えないところへ行ってしまった。

俺には叶わない夢がある。
もし父が歩けなくて困ってしまうような時がきたら俺がおぶってやる。 叶わない夢だけど…

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 14:17Comments(0)泣ける話

2010年02月23日

泣ける話 14  思い出のタバコ

No.504 ☆☆☆思い出のタバコ★★★ より


646 :774mgさん :2006/04/02(日) 17:54:10 ID:SOXwi9qL

先週命日だったので書き込ませていただきます。

俺の近所には2つ上の姉ちゃんがいた。

その姉ちゃん空手の段位保持者で小学生の俺から見れば最強の存在だった。そして可愛かった。
生まれつき茶髪で虐められていた俺を助けてくれて、喧嘩の仕方とか教えてくれた。
ある日虐めていた奴らを返り討ちにしたとき俺はそのことを報告しにいった。

「いい?○○(俺の名前)。人が暴力に訴えていいのは最終手段だよ?
すぐに腕を上げるのは男として最低だからね!」

彼女がそうやって俺に教えてくれたことを今でもちゃんと覚えている。

高校に入ってすぐ俺が告白して、姉ちゃんと付き合った。
もちろん彼女と喧嘩しても力で勝つことはできなかったw。俺の心の中でやっぱり最強の存在だった。
そんな彼女と17歳のとき、俺は寝た。
初めて女を知った日だった。最強の彼女はやっぱり女だった。

そのとき彼女はキャスターマイルドを吸っていて

「体に悪いから二十歳になるまで吸っちゃ駄目だぞ~」

19歳のくせにそんなこと言うと煙をふかしながら彼女は言った。



647 :774mgさん :2006/04/02(日) 17:56:07 ID:SOXwi9qL

そして彼女を追いかけるように同じ大学を受験、そして合格。
同じ大学で彼女と楽しい時間を過ごしたかった。過ごすはずだった。

入学式1週間前、彼女は死んだ。交通事故だった。
最強の存在だった彼女はあっけなく死んでしまった。
通夜のとき彼女の棺桶に沢山のキャスターを入れてやった。不思議と涙は出なかった。

そして普通に学校に通って成人式を迎えた。友達と酒飲んで酔っ払って帰宅している途中だった。
タバコの自販機を発見。彼女の言葉が思い浮かぶ。

近寄ってたどたどしい手つきで小銭を投入。
キャスターマイルドのボタンを押す。

家に帰ってからく暗い部屋の中タバコに火を点した。
吸い方がわかんなくて思いっきり吸って、むせた。
そして、もう一口恐る恐る吸ってはいた。

彼女の匂いだった。
涙が出た。思い出、温もりが走馬灯のように頭をかすめ。ただ泣いた。
今までためてきたものを全部流すように泣いた。

そんな俺は今21歳、吸ってる銘柄はもちろんキャスター
彼女の命日になるとキャスマイを2箱買って、1つは墓前にもう1つはゆっくり時間をかけて吸いきる。
そうすれば彼女がすぐそばにいるように感じるから。

由佳
いままで楽しい思い出をありがとう。
お前のことは忘れない。



194 :774mgさん :2005/09/26(月) 02:53:02 ID:NR/Ccfbm

禁煙して、と言った彼女に駅の改札口で振られた後、
俺はホームで呆然と電車を待ってた。

もう21時をまわってて、田舎だから他にはオッサンしかいなかった。
とりあえず一部始終はそのオッサンに見られていたと思う。
もう全部どうでもよくなって、自販でセッタを買って喫煙所まで行って気付いた。

火がない。
急にいろいろ思い出して、惨めになって、
目を潤ませながらカバンをゴソゴソやってる俺に、オッサンが
火、いるかい?
俺はうなずいて火をもらい、一服した。
同時に、涙がこぼれた。
お礼の一言を口から出すことができなかった。
オッサンは、俺の肩をたたいたあと、黙っていてくれた。
オッサン、ありがとう。



690 :774mgさん :2006/04/11(火) 17:34:02 ID:r1P/Plcj

姉は中学校の頃からセブンスターを吸っていた。

私と7個年の離れた姉は、私と双子の妹が10歳の頃から、家庭の事情で自分の事なんて放り出してずっと一人で私達を育ててくれた。
母は元々体が弱い人で、私達双子を産むときに死んでしまったそうだ。
母が死んでからは父が私達を育ててくれた。
その父は私が9歳の時に仕事をクビになり、中卒で就職した姉の給料だけを頼りに生活していた。
でももちろん姉の給料だけでは足らず、生活保護などの知識は全くなかったため、うちの家計は苦しいどころか借金まみれになっていった。

姉は普段の事務職の他に、コンビニで深夜バイトに入った。
姉には休みなんかなかったんじゃないかな。
そんな状態の中、父が倒れた。脳梗塞だった。
命は助かったが後遺症が残り、右半身が動かなくなってしまった。



691 :>>690 :2006/04/11(火) 17:45:58 ID:r1P/Plcj

姉は毎日満足に寝ないまま仕事へ行き、休みの日には私たちを連れて父の所へ連れてってくれた。
毎日仕事で大変なのに、家事もご飯作りも全部やってくれた。
くわえ煙草で料理をする姉の姿はいつも見ていた。

私と双子の妹によく優しくしてくれた。
姉と話せるのは朝、学校に行くまでの2時間だけだったがすごく楽しかった。

そんな状態が続き、私たちが中学2年になってすぐ、2度目の脳梗塞で父が死んだ。
それからも姉は私達の学費や生活費を稼ぐために一生懸命働いてくれた。
私達はなんの不自由もなく地元の短大ではあったが、大学も卒業させてくれた。



692 :>>691 :2006/04/11(火) 18:06:18 ID:r1P/Plcj

在学中は私も妹もバイトして、姉がコンビニで働かなくてもいいようにと、自分たちの学費分だけでもと、一生懸命働いた。
姉の25歳の誕生日には2人で初めての誕生日プレゼントを渡した。
あまり高いものではなかったけど、マッサージチェアをあげた。
すごく喜んでくれてうれしかった。

大学を卒業した年、双子の妹が結婚した。
相手はとても優しそうな人で、よく家に遊びに来ては姉の手伝いをしてくれた。
私は卒業後すぐに地元の幼稚園で働きだした。
その幼稚園で同じ保育士として働いていた今の旦那と3年後に結婚した。


久しぶりにみんなで会い、お酒を飲んだ時、姉は酔っぱらって、煙草を吸いながらこんな事を言った。

「アンタ達2人とも、やっと結婚してくれたからやっとお姉ちゃんも身を固められるよ。」と。

詳しく聞くと、この時連れてきていた男の人と、16歳の時から付き合ってたって。
父も大変な事になり、私たち2人がちゃんと大人になって結婚しない限り、
私一人では幸せになることなんか出来ないとずっと彼氏を待たせて、
私たちを見守っていてくれたようだ。

私と妹は大きな声で泣いてしまった。
今まで姉は、愚痴も泣き言も言わず、いつも笑顔で私たちを支えてくれた。
ずっと姉に頼ってばかりだった。

そんな姉も今はいそいそと結婚に向けて準備している。
もちろん、くわえ煙草で。
いつの間にかセブンスターはホープのメンソールになっていた。


これまで姉はどれだけの不安と愛情で私達を育ててくれたんだろう。
どれだけの自分を無駄にして私達を笑顔にしてくれたんだろう。
姉に怒られたり、笑わされたり、たくさんいろんな事があったけど、これからは私達がお姉ちゃんを支えて行くからね。
10年もお姉ちゃんのそばにいてくれた、旦那さんと幸せにね。

お姉ちゃん、結婚おめでとう。
ここまで育ててくれてありがとう。

お姉ちゃん、大好きです!



912 :774mgさん :2006/07/31(月) 04:14:57 ID:FilFKxqZ

セブンスターカスタムライトかな。去年逝った親父が吸ってたもんで。

正直言って親父にはろくな思い出がない。
酒、煙草、ギャンブル…全部やってる人間だった。まるでドラマにでも出てきそうなダメ親父。
糖尿になって酒煙草を辞めろ、と医者に言われても「酒煙草が出来ねぇなら死んだ方がましだ!」とか言ってたなぁ…
お金も家にはろくに入れず、しょっちゅうお袋と喧嘩してた。
こんな親父だから当然俺は親父の事を軽蔑してた。今でもそうだけど。

ただ、一度だけ尊敬出来た事がある。
中1の時に親父の仕事を手伝ったんだよ。
その時ばかりは普段とは違って仕事に集中している姿に、俺は親父を誇りに思った。
そのあと休憩になって喫煙所へ行き、親父が煙草を吸い出した。
すると親父は、ぽろっと「〇〇、俺みたいにはなるなよ…自分の好きな事を全力でやればいいんだからな…」と溢した。



913 :774mgさん :2006/07/31(月) 04:30:03 ID:FilFKxqZ

何故かは分からないが涙が溢れた。どうしようもなく泣いた。
親父は黙って俺の肩を叩きながら煙草をふかしていた。
その後、俺は何とか大学まで進んだ。
その間も親父は今まで通り体たらくな生活を繰り返していた。

そんなある日、親父は突然逝った。心筋梗塞だったらしい。
葬式では家族全員涙なんか流さなかった。
とりあえず一段落して、親父の部屋を掃除していると3枚の手紙が出てきた。
それは俺、兄貴、お袋宛てだった。
その手紙の旨は、8割近くが謝罪文だった。
それも汚ったねぇ字で。
俺たちはその手紙を黙々と読んだ。

みな自然と涙していた。俺も号泣した。俺の手紙の最後には、
「俺は人間の屑だ。しかも親父としてお前に何も残してやれなかったが、お前への気持ちは本物だ。
 絶対に俺のようにはならないでくれ。」と書いてあった。

「あんたみたいになんか絶対になるかよ…」俺は震える声で呟いた。


その後俺もいっぱしの社会人となり、忙しく会社で働いている。
休憩時間、喫煙所で煙草を吸っていて、ふと、あの時の事を思い出す事がある。
来週あたり、墓参り行ってやるかな…水代わりの焼酎に、線香代わりの煙草でも持って…

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 08:41Comments(2)泣ける話

2010年02月23日

泣ける話 13 嬉しかった上司や先輩の一言

No.503 嬉しかった上司や先輩の一言。 より


121 :名無しさん@明日があるさ :2006/05/19(金) 23:59:09

ウチの上司はオレの同僚のSばっかりにキツくあたってたけど
そのSが事故で亡くなっちゃってその葬儀のときに泣きながら
「10年後のオマエを見て怒っていた・・・10年後のオマエは出来る男になってた」
って言ったときは目から水でた



12 :名無しさん@明日があるさ :2005/10/18(火) 20:09:48

約10年くらい前の話。
そろそろ付き合っていた彼女と結婚を考えていた。
仕事の遣り甲斐も感じ、結婚しても仕事を続けたいと希望していた彼女と俺に
とってはまさに好条件が整った状況下で不運は突然訪れた。

地方への転勤。
全く異なる業務と理不尽な異動。
今思えば確かに上司と意見が食違いぶつかりあう事も多かった・・・。
どうしても納得出来なかった俺は、転勤して3日以内に辞めてやるっ、
更に憎まれ口を叩かれる存在になってやろうと決意した。
俺は転勤した後、誰とも口を聞かずまともに仕事もしなかった。
流石に3日でやめる勇気もなく1ケ月が過ぎたころ、残業中の俺に上司が声を掛けてきた。

「飲みに行かないか?」
行きたいとも思わなかったが断る理由もなかったので行く事にした。
店に着くとすぐに「何を悩んでいるんだ?」
普段、比較的厳しい人だったので突然、屈託の無い笑顔でそう言われた事にいささか拍子抜けしてしまった。



13 :名無しさん@明日があるさ :2005/10/18(火) 20:24:45

俺は矢継早に自分の主張や将来やりたいと思っていたこと、
そして何より彼女と真剣に結婚を考えていた事を正直に話した。
すると上司は「そうか、わかった。」
少しうつむき加減で答えたその言葉は俺にとってどう解釈してよいものなのかその時は分からなかった。

それから3ケ月が経過し突然上司から会議室へ呼ばれた。
概ね察しはついた。
どうせまた、悪条件での転勤だろうと。
あんな事、言うんじゃなかったとその時は後悔した。
ところが話しを聞くと転勤には変わりなかったのだが、俺が希望した好条件での転勤内容だった。
驚いて「なぜですか?」と弾む言葉を抑えながら質問した。すると、

「仕事以上にお前の一生を大切にしてやりたい。これからの人生を頑張れ。」
そう言われた。あれから10年経過するのだが今でも強く印象に残っている。



53 :名無しさん@明日があるさ :2005/10/25(火) 20:06:09

年老いた係長に「駄目な息子と一緒に仕事しているみたいだな(藁」
幼い時に父親を失った俺にとってはうれしい一言だった・・・。
よく飲みにも連れて行ってくれたっけ。昨年退社しちまったけど
○○さん、元気かなぁ・・・。



183 :名無しさん@明日があるさ :2006/09/25(月) 14:55:42

大卒から勤続8年目。
俺は上司含め、同僚が苦手、というかあまり好きではなかった。
ワイワイと騒ぐ職場で馴れ合いもせず、昼飯や飲みも付き合いはするが仲良い同僚なんてのもいなかった。
そんな俺の性格を理解してか、周りもあまり俺に近づいてこようとはしなかった。(仕事外ではね)

ある日外回りから帰ってさっさと席につきコツコツと事務処理をやっていた時の事。
上司が近づいてきて、「○○く~ん、このあいだの件(極秘な)ゲットできたらしいな、よくやった!」
…普段どんないい事しても褒めもしない上司が、褒めた。
しかも超笑顔。

さらに部下が
「○○さん、明日某客先に行くんですけど、教えてもらえますか?」
って、普段怖がってか俺に聞かないで俺より下の奴に質問してるおちゃらけ若者が俺に質問してくる。

とどめに女の子がコーヒー持ってきてくれたり。



184 :名無しさん@明日があるさ :2006/09/25(月) 15:03:57

明らかに俺は優遇されすぎていた。おかしい。
この時期に昇進か?まさか転勤…妻子も家もあるのに。って考えてたら。
やたら背の低い影が俺に近づいてきた。

息子だった…
びびって椅子からころげ落ちた。
どうやら幼稚園で父の仕事を発表する事があるらしい。
聞いてない。
のは俺だけで、嫁が事前に上司に許可もらってたと。

それで皆おかしかったのか、息子もなんだか嬉しそうだしいいのかな。
普段の俺を見たら寂しそうだなぁとか思ってただろうな。
その夜飲み会があった。
今回の件、課長が根回ししてくれてたり、うるさい若者が自ら話しかけにきたいと言った事とか、いろいろわかった。
泣いた。

それからは仕事に感情をだせるようになった。
仕事が、職場が楽しいと思えるようになった。
そして息子の発表会は行けなかったが、とても誇らしげに語ったみたい。

皆大好きだ!



45 :名無しさん@明日があるさ :2005/10/20(木) 20:19:34

自分のミスをかばってくれた上司。
漏れがお得意様の逆鱗に触れてしまったのだ。

上司はその事に誠意を持って陳謝してくれた。
プロジェクトからも外される覚悟でいたが、こう言った。
「プロは金をもらっている人間の事じゃない。金を払ってでも
 その仕事をやってもらいたい人間の事を言うんだ。
 お前にはその素質があるし、今後もこのプロジェクトに参加し続けてもらいたい。」
正直、トイレで泣いた・・・。
漏れはこの人の為に今、仕事をしている。



137 :名無しさん@明日があるさ :2006/05/21(日) 21:24:48

すべては自分たちの失敗から始まった取引先顧客への大損失だ。

社長室へ呼ばれオレも辞する覚悟はしてたものの、上司の口から出た言葉は、
「すべて私の責任です。彼らには仕事の楽しさを教えてあげる事さえ私は出来ませんでした。」
スッと差し出した辞表。
何故かその表情は安堵に満ちていた。
社長は「分かった」とだけ言ってその辞表を受け取る事はなかった。

あれから5年、その上司は社長になりあの時、辞表を差し出したときに
何故おだやかな表情をしていたかを勇気を出して聞いてみた。

「当たり前だろ。
 もっとも信用していた君達に自分が愚直にやってきた仕事を
 引き継げる、そう思ったからじゃないか。
 何も不安は無かったよ。」

あんなに迷惑を掛けっぱなしだったのに・・・。
私達も頑張ります。
少しでも貴方に近づける様に。



47 :名無しさん@明日があるさ :2005/10/20(木) 21:10:22

俺がミスを重ねたために異動を余儀なくされた時に、上司がかけてくれた言葉。
「絶対に這い上がってこいよ」




あれから5年、来年から前の職場に戻る。

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 08:39Comments(0)泣ける話

2010年02月23日

泣ける話 12 涙が出るほどいい話

No.507 【あの日の】涙が出るほどいい話【想い出】3.0 より


424 :ほんわか名無しさん :2007/10/13(土) 15:58:51 0

自分のことじゃなくて恐縮ですが、母が中学生の頃の話。

母は父親(私の祖父です)と二人で生活していました。その日暮らし、という
表現がまさにぴったりという貧乏振りだったそうです。
ある日、父親が風邪で寝込みました。それまで一度も倒れたことなどなかったのに、
高熱を出し、あまりに苦しそうな父の様子に、母は物凄く焦ったそうです。
たかが風邪なのに、薬を買うだけのお金がない。考えあぐねた母は、大事に
していた本を古本屋へ持って行きました。その本を買った古本屋へ。
古本屋のおじさんは、おそらく切羽詰った母の表情から何かを感じ取ったのでしょう。
その本を売ったお金で、無事に風邪薬が買えたそうです。

この話が出たのは、アイヌの神さまにまつわるちょっとした雑談がきっかけでした。
「コタンの口笛」っていう、大好きな本があって……という回想から、急に
思い出したのだそうです。
母はもう65、記憶に間違いがなければ、たぶんあの時の古本屋のおじさんと同じくらい。
「あの時はとにかく必死だったけど、あんな本一冊売っただけで薬が買えるわけ
ないのよね……それだけ必死な顔してたのかも」と、呟いておりました。

大げさかもしれないけれど、母を救い祖父を救ってくれた、見も知らぬ古本屋のおじさん。
もしかしたら、今ある家族を救ってくれたかもしれない方へ、心から感謝します。
母が大事にしていたという本をネットで調べて注文しました。
もうじき母の誕生日なので、びっくりさせようと思います。



18 :ほんわか名無しさん :2007/02/18(日) 04:32:37 0

大学が決まり一人暮らしの前日の日
親父が時計をくれた。
金ピカの趣味の悪そうな時計だった。
「金に困ったら質に入れろ、多少金にはなるだろうから」
そういってた。

二年生のある日、ギャンブルにハマリ家賃が払えなくなった。途方にくれていた時。
ハッと気がつき、親父の時計を質にもって行った。
紛れもない偽者であることが判明した。
すぐに親父電話した。

俺「おい!偽者子供につかませんなよ!」
親父「なっあてになんねーだろ人のゆうことなんざ。困った時にこそ裏切られるんだよ
   最後の頼みの綱になー。がはははは!これが俺の教育だよ。」
親父「でいくら必要なんだ?金に困ったんだろ?」
俺「・・・・あきれるわ。十二万貸してください・・・」
親父「明日振り込むから、何があったかは聞かない。金がない理由は親にいえない事が多いわな!」
親父「がはははは!女にでもはまったか?このバカ息子が!!ははは!!」

正直心底むかついたが、親父の声は俺を安心させてくれた。
今思うと、小さい会社だが経営者らしい教育だったのかなと思う。


そんな親父も去年の夏、ガンで死んだ。
往年の面影も消え、ガリガリになった親父がまた時計をくれた。
まだ箱に入った買ったばかりの時計だった。必死で笑顔を作りながらいった。

親父「金に・・困ったら質にでも・・・入れろや・・!」
オメガのシーマスターだった。くしくもその日は俺の誕生日だった。
俺「親父の時計はあてになんねーから質には入れないよ。」

二人で笑った三日後親父は死んだ・・・・
親父が死んだ今も金ピカの時計はメッキもはげたがまだ時を刻んでいる。



106 :ほんわか名無しさん :2007/04/20(金) 01:34:43 0

会社の机に部下である僕らの席と名前を書いた紙をセロテープでとめて
手帳は僕らの特徴で真っ黒
10年付き合った若年性アルツハイマーの上司

彼の書いた注文書を確認する担当
彼の受注をもう一回お客さんに確認する担当
彼のアルツハイマーシフトは僕らのせめてものお返しだった

笑って「アルツの上司だぞ好きにやってしまえ!期待してるぞ!」
という笑えないジョークで涙を誘うバカな上司
新入社員の倍手間のかかる上司
新入社員を俺と勘違いして10分説教してしまう上司

まちがって俺に辞表を提出した彼は会社をやめることができなかった

最後に彼の率いる支店はダントツの一位をとって
「勇退」という花束を僕らは渡した



50 :ほんわか名無しさん :2007/03/04(日) 20:49:30 0

すこし長くなりますが、父の話をします。
うちは5人家族に犬が2匹、父は小さな会社の平社員で、決して裕福な家庭ではありませんでした。
無口でシャイな父は、普段から家族ともあまり話さず、友人も少ないようでした。
私はそんな父が大好きでしたし、時々休みの日に何も言わず遊びに連れ出してくれるのが、とても嬉しかったです。
母、姉、妹は明るくてお喋りでしたが、私だけは父に似たのか小さい頃から物静かで、
父とは言葉を交わさなくても、一緒にいるととても幸せでした。
今まで母には数え切れないくらい叱られ、叩かれたことも星の数ほどあります。
でも父に叱られた記憶はありません。もちろん叩かれたことも。
母に叱られて泣いている私を、やんわりと庇ってくれる優しい父でした。

そんな父が、突然入院しました。私が高校2年生の夏でした。
身体が大きくて丈夫だった父ですから、私も最初は軽い気持ちで、すぐ退院できるものだと考えていました。
でも、日を追うごとに父は痩せ細り、お見舞いに行く度に酸素マスクやら呼吸器やらが増えていきました。
それでも父は私がお見舞いに行くと嬉しそうで、特に言葉も交わさず、
病室に備え付けられたテレビを長いこと一緒に観たりしていました。
しかし、入院してから1ヶ月近く経ち、父は自分で呼吸ができなくなりました。
体内に機械を入れて呼吸しなければならない、
でもそうすると物も食べれないし言葉も話せなくなると、先生に言われました。
父は「治ればまたもとに戻るんだから」と言って、機械を入れる直前も、
特にたくさん物を食べたり話したりすることもありませんでした。

それから1週間も経たずに、父は眠るように亡くなりました。入院から1ヶ月とすこしでした。
私はすぐに現実を受け入れることができなくて、涙が出てきませんでした。
まだあのベッドに父が横になっているような気がして。
また父が家に帰ってきて、靴箱の上に自転車の鍵を置く音がするような気がして。



51 :ほんわか名無しさん :2007/03/04(日) 20:50:52 0

お通夜の日に、父の友人の奥さんが私に話をしてくださいました。
無口な父が、友人に私の話をしていたそうです。
「あの子は教えてもないのに、昔から絵がすごく上手なんだ」と、私の自慢をしていたそうです。
それを聞いて、私は涙が止まりませんでした。
私は小さい頃から絵が好きで、よく絵を描いていたのですが、
父が面と向かってそれを褒めてくれたことなんてなかったからです。
ああ、お父さんは何も言わないけど私のことをちゃんと見ててくれたんだ。
そう思うと嬉しくて、それにありがとうと言えないのが悲しくて、涙が溢れて止まりませんでした。
それから数日後、父の遺品を整理しているとき、私が幼稚園くらいの頃に描いた下手くそな絵が
大事にしまわれているのを見つけて、また泣きました。

あれから2年半が経ちました。
私は今、芸術系の大学で、絵の勉強をしています。
奨学金を受けながら、ギリギリの生活だけど、毎日頑張っています。
あのとき、父の話を聞いて、真っ直ぐ夢に向かって進む決心がつきました。
お父さん、私、お父さんのおかげで、今、とっても毎日が充実しているよ。
何も言わなくていいから、天国から見守っていてね。ずっと大好きだよ。



433 :424 :2007/10/24(水) 15:07:45 0

先日、母に件の本をプレゼントしたので、後日談として報告にまいりました。

残念ながら母が以前に持っていたハードカバー(絶版のようです)ではなかったのですが、
非常に喜んでもらえました。
父からはサプライズの花束(花屋さんからの配達。毎年やってます)、姉からは
母の好きな抹茶と葛湯の詰め合わせと、本人いわく充実した誕生日になったそうです。よかった。

本の表紙を懐かしそうに眺めながら、「やっぱりねえ、こんな本一冊に、薬が買える
だけの値段がつくわけないよねえ……」と、しみじみ呟いておりました。
小さな助け合いが大きな未来に繋がるのだと実感した出来事でした。

それでは、名なしに戻ります。お付き合いありがとうございました。


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 08:37Comments(2)泣ける話

2010年02月23日

泣ける話 11 奥様編

2010年01月21日23:49 旦那をずっと大好きな奥様part3(;´Д`) より



41 :可愛い奥様:2005/06/15(水) 17:25:32 ID:xkUFauIr

昨日、私が緊急に手術を受けることになりました。
(簡単な一時間程度の手術)

手術前は
「おなか減った~。
 お前が手術室に行ったら
 俺は一人ですぐご飯食べに行くから!」
ってしきりに言っていた旦那。
(朝から飲まず食わず。ちなみに手術は夕方。)

で、手術が終わって病室に戻るときに
旦那がかけよってくる足音が聞こえました。
意識が戻っていた私に
「何が食べたい?買ってくる!」
と言って私の分と自分(旦那)の分を買ってきてくれた。

なにさ。
私が手術室に向かったらすぐご飯食べに行くって言ってたくせに。
食べてないじゃん。
食べるどころか飲み物も飲んでないじゃん。
チョト、泣けた。



162 :可愛い奥様:2005/07/22(金) 20:56:55 ID:tgZcMKoG

昨日は私の誕生日だった。

朝なにも言わずに出掛けていった夫が
帰宅するとなにやら紙包みを
「ほい、プレゼント」
開けてみるとお気に入りのショップの可愛いハンドバッグ。

「ったく、若い女がいっぱいいて買い物の邪魔でよぉ~」
と悪ぶるけど仕事帰りのYシャツ姿で女のコに囲まれて
右往左往している夫を想像したら笑えるやら涙が出てくるやら・・・

「で、ホントはこれ誰と選んだの?」とからかったら
「俺に決まってるだろっo(`ω´*)o」ってムキになってやんの。

嘘だよ。大切にします。ありがとう。



354 :可愛い奥様:2005/08/19(金) 18:38:47 ID:v//1tsyG

旦那大好きだ。

結婚して7年目。久々の妊娠もまた流産というツライ結果になってしまった。
でも電話で明るく「大丈夫だよ」って言ってくれた。
あんなに妊娠を喜んでくれてたから、本当はツライ気持ちなんだと思う。
ごめんね。そしてありがとう。
あなたの優しい声にどれだけ救われたか。

またしばらくふたりきりになるけど、これからもよろしくね。
そしていつか必ず、3人目の家族を笑顔で迎えようね。
あなたと結婚できて本当に良かった。心からそう思う。
彼を産み育ててくれたご両親、本当にありがとう。



555 :可愛い奥様 :2005/09/01(木) 09:49:18 ID:M/F0TiU6

残業続きで疲れているようなので、最近会社までよく送り迎えをしてる。
昨日も遅くて、迎えに行ったら、車に乗り込むや否や
「○○ちゃんが健康でよかったなって思う。」
なんだか、理解できずに「どうした?」って聞いたら、
「いや、入院もしたけどさ元気なのが一番うれしいなって。」

くそう。うれしくて泣きそうになったじゃん。
心配かけててごめんね。
あなたこそ倒れないでね。



830 :可愛い奥様 :2005/09/20(火) 09:24:49 ID:Io8/IeQg

ある漫画を見ていたら、
40の男と26の女の子が結婚したんだがその旦那さんが
「俺の持ってるもの、全部たかちゃんにやるよ」って言うのさ。

なんで?って聞くと、
自分は奥さんより年上で、絶対先に死んじゃうからって。
私が先に死ぬかもよ、って言うとそんな事想像したくないとか
私が先に死んだら意外とまた新しい奥さんもらっちゃうかもよ、
それでもいいけど幸せになってねとか、
たまには私のことも思い出してねって言うシーンがあって
それは私達が結婚した時と全く同じやりとりだった。

すごく切なかった。
やっぱり歳の差のある夫婦ってのはみんな同じことを考えてるんだろうか。
旦那は本当に高額な生命保険に入り、家のローンももうすぐ完済できるよう
返済を繰り上げて頑張ってる。

「俺が死んでも、困らないだけのものは遺してあげるから」
そんなのいいから長生きして。お願いだから無理しないで。



316 :可愛い奥様:2005/08/11(木) 04:14:13 ID:n4U3LdlE

うちのダンナ出張先から帰ってきませんでした。
毎日「好きー」「愛してるー」って言ってたのに、
私をおいて、とても遠いところに旅立ってしまいました。

出張先の警察から電話がかかってきたときに、
何を言われているか理解できなくて、
ただひたすら受話器を握りしめて立ちつくしていました。

トメ(姑)と病院駆けつけて、ダンナと対面して。
現実感がなくて、涙も出なくて、冗談じゃないのかなーと思って。
でも、やらなきゃいけないことが沢山あって。

最近やっと泣けるようになったんですよ。
寂しくて寂しくて、帰ってきてほしくなるんですけど、
でも声も届かないんですよね、
きっと。

一緒に連れて行ってほしかったなーとか思ったり、
今からでも遅くないから、あとからついていこうかと思ったり。

ダンナー、ずっとずっと大好きだよ、
愛してる、愛してるから一度だけでいいから帰ってきてー
一緒にご飯食べて一緒のお布団で寝ようよー。
って大きな声で言いたい、
叫びたい。
帰ってきて欲しい。



331 :316:2005/08/12(金) 21:53:19 ID:zPhDmWRh

ドラえもんが帰った後、部屋ががらんとなっちゃったって
のびたがつぶやくシーンがあったじゃないですか。
そんな感じ。

まだ、心配するなよ…ってダンナに言ってあげられないですけど、
少しづつ前を向いていかないと、生活もできないですしね。

私もいつ何があっても悔いがないように愛してきたつもりだったけど。
でも、やっぱり悲しみが後から後からあふれてきて。

まだまだ辛いです。
「そろそろ仕事もペース元に戻してね、
 いつまでも悲劇のヒロインやってないでね」
とか、上司に言われると激しい怒りとともに途方もない喪失感とかやるせなさに襲われます。

最期の言葉は「ごめん、ごめんね」だったそうです。

私を選んでくれてありがとう、
愛してくれてありがとう、
もう謝らなくていいから、
私を見守っていてね。
いずれまた会おうね。

もう既婚の奥様じゃないので、
どこか違う板に行きますけど、
ほんとにダンナを愛してるならダンナを大事にしてあげてねー。
皆さんのダンナと皆さんが幸せであるように。


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 08:31Comments(0)泣ける話

2010年02月16日

泣ける話 10 カーチャン

こんな自分でも産んでくれたカーチャンに感謝 より


11 :名無しの心子知らず :2006/09/19(火) 19:38:14 ID:SMHhRWKp

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。
友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。

ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪いし、とても食べられなかった。
家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので

「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」
とついきつく言ってしまった。
母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。

それから半年後、母は死んだ。
私の知らない病気だった。
母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。

「今日は〇〇の好きな海老を入れた。
 相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃになったけど…
 喜んでくれると良いな」
何で食べてあげなかったんだろう…
今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。



27 :名無しの心子知らず :2006/09/27(水) 00:30:46 ID:6Fj8AO7W

『ワンダフルライフ』っていう映画知ってますか?
自分が死んだ時に、たった一つ天国に持っていける記憶を選ぶ、っていう内容。

高校生の頃この映画を見て、何の気なしにママに聞いてみた。「どのシーンを持っていきたい?」
ママは即答えた。
「アンタが生まれた瞬間かな。」

うちは大して裕福でもなかったのに、私が男の子苦手だったからなんて理由だけで、
小学校から身分不相応な私立のお嬢さん学校に通わせて貰った。
なのにちっとも勉強しなくて、ママは何回も赤点取った私のせいで学校に呼ばれた。
受験もないくせに、授業についていく為に塾にも行かせて貰った。
そんなに余裕なかったはずなのに…。
でも当時の私は全然そんな事も考えないで過干渉だって反抗ばっかりしてプチ家出。
たくさん怒らせ、泣かせた。

やっと専門まで出て、念願の幼稚園の先生になれた。
家にお金も入れられるようになった。
なのに無計画な妊娠…。しかも相手は4つも年下の学生の彼氏。おろしてって言われた。

産みたいけど、1人じゃ無理だよってママに言ったら、人殺しってひっぱたかれた後、
「私にまだ子宮があれば代わりに産んであげたのに…」って泣いた。
ママは子宮筋腫で子宮をとってしまっていた。

その後私の貯金と、今迄家に入れてたお金(ママが貯めててくれた)を合わせて、引っ越し、出産資金にした。
彼氏ははっきり言って自己中のDQNでまだまだ子どもだけど、なんとか説得したよ。
今はお腹の子どもに毎日話しかけてる。

24にもなって、これだけ大切に育てて貰ったのに、何一つお返し出来ず、いい年こいて最後の最後に心配や迷惑をかけたまま嫁に出た。
妊娠経過もよくなくて、度々お世話になってしまった。
みんな諦めた方がいいって言う中、あなただけが私の産みたい気持ちを尊重して、精一杯の事をしてくれた。私の幸せのために祈り、叱ってくれた。
こんな大人になってもだめな娘だけど、やっぱり天国には初めて会えた日の記憶を持って行ってくれるかな?

ママの孫は、今週か来週には生まれるよ。
あなたを超えるのは難しいけど、私も娘に、あなたが与えてくれた愛情を伝えて行きます。

いつもごめん。
ありがとう。
世界一尊敬してます。
もうすぐバーバになるママへ。
もうすぐママになる馬鹿娘より。



163 :名無しの心子知らず :2006/12/03(日) 14:16:17 ID:iGlb0mRz

社会人になって初めて迎えた母さんの誕生日。
「いつもありがとう」ってプレゼントを渡したかった。

でも照れくさいし、もし選んだプレゼントが気に入ってもらえないと怖かった。
だから「選ぶのめんどいから」って嘘ついてデパートに連れて行って、
「何でもいいから適当に買えよ」とぶっきらぼうに言うと、
「高いエプロンだけどいい?」とおずおずと見せに来て、値札見たらたった3000円。
「こんな安物かよ」とひったくって後ろ向いて、泣きそうな顔を見られないようにレジに走った。

服でもバックでも、ほかに何でもあるだろ、財布の中に給料全部入れてきたんだぞ!って涙が出たけど、
トイレで急いで顔洗って、そ知らぬ顔で袋を渡した。
そしたら、母さんがうれしそうにそれを抱きしめたのを見て、また泣きそうになった。

いまでも帰るたびにそのエプロンつけて飯作ってくれて、ありがとう。ほんと美味いよ。世界一だ。
いつも素直になれなくてごめん。
マザコンでもいいよ、母さん大好きだ。



170 :名無しの心子知らず :2006/12/04(月) 21:50:38 ID:symZFLiD

うち母子家庭で貧乏なんだけど、苦労かけてるから中学生の時に、
がんばってお金貯めて、けっこうな値段で初めての母の日のプレゼントを買ったんだよね

渡した時は良かったんだけど、その後別のことで喧嘩して
「こんなん買うくらいだったら将来の為にお金ためとき。
 使わないし、いつも無駄使いして」って言われた。
自分の部屋に篭って泣いた。
自分がすごく馬鹿らしいプレゼントをしてしまったとしか思えなくなった。

そしたら次の日のお弁当のふたの所に「ありがとね」って書いたメモが入ってた
友達が何それ?って聞いてきたけど泣きそうになってしまってトイレ行ったなあ



24 :名無しの心子知らず :2006/09/25(月) 06:48:16 ID:IKOk0p3Z

カァチャン、元気にしていますか?
居なくなってから九年がたちました。
九年も経ったのに、まだ寂しくて、たまに涙する事があります。
一児の母になったのに、まだ泣き虫の私を叱りに来て下さい。

カァチャンが居なくなった時は、私は小さくて、あまりカァチャンの記憶がないけれど、こんな事やあんな事をしてくれたんだろうなと思いながら、日々娘に接して居ます。

カァチャン、泣き虫なこんな私を産んでくれてありがとう。
写真のカァチャンは、いつも笑顔で嬉しいけど、たまには、怒った顔を見せて欲しいよ。
カァチャンに逢いたいけど、まだ私は逢いに行ってはいけない所だから、我慢するよ。

だからね、カァチャン夢くらい、出て来てよ。待ってるよ。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 00:00Comments(1)泣ける話

2010年02月15日

泣ける話 9 救われた話

嬉しかった言葉、救われたこと より


18 :優しい名無しさん :03/10/27 10:35 ID:+2+oRM3Q

お前、寂しそうに笑うね

複雑な家庭環境に育って困難が多かった。
友達にも相談できなくて子供の頃から1人で泣いてた。
不満を家族にぶつけても抑えられるから、いつしか心に蓋をして
寂しい気持ちを忘れてた。
そんな時に言われた一言。
衝撃を受けて何も言えなかったけど
気づいてくれる人がいるという安心感から涙が止まらなかった。

でもそこからなぜか弱い人間になってしまったけどね…



63 :優しい名無しさん :03/11/19 21:36 ID:xdusHQ4T

自殺未遂をしたときに、
「そんな楽しいことしちゃ駄目じゃない」
と云った皮膚科のお爺ちゃん先生。
貴方の一言で、ずいぶん救われました。
精神科の主治医なんか頭ごなしに冷たい目で見るだけなのに、
そうやって優しく流してくれるのがどんなに嬉しかったか。



68 :優しい名無しさん :03/11/21 21:38 ID:LaM2L3Ri

今日会社で、所長に退職を伝えた時(所長は鬱のこと知ってる)
「今まで頑張ってきたんだからさ、今は無理せず頑張らずでいいんだよ。
そうやっていくうちにまた一緒に仕事できるよ。」
ありがとう。あなたのような上司でよかった。幸せです。



76 :優しい名無しさん :03/11/27 02:11 ID:6NHcOtiC

うつになって、学校に行けなくなってしまったとき。
友人からたくさんのメールや電話がかかってきました。だけど電話が取れるような
気分では無くて、ずっと無視していたら、その友人から怒りのメールが送られて来ました。
自分が悪いのだと分かっていつつも、逆切れしてしまい、本当の今の自分の状態を
友人に伝えたとき、こんなメールが返って来ました。

「やっと本心教えてくれたね。なかなか言ってくれないんだもん。でもね、貴女が
『うつ』だろうがなんだろうがそんなことはどうでもいいんだよ。貴女は貴女でしょう?
別に変わりないじゃないって私は思うよ。そんなんで友達捨てるほど落ちぶれちゃいない
よ」

彼女のこの言葉に救われました・・・。
学校にはまだ行けていないけど、今週中には行けたらいいな・・・。



80 :優しい名無しさん :03/11/29 01:25 ID:7t8n+KIp

精神的につらくて大切な人に八つ当たりをしてしまいました。

散々ひどいことをいったのに
「何事も諦めるな 諦めたら終わりだよ」
とメールをもらいました。

もう嫌われたと思ったと返信したら
「俺がいつ見放すといったか?
 お前のことを最期まで見捨てないと言っただろ?」

……このメールをみてしばらく涙が止まりませんでした。



208 :優しい名無しさん :04/02/14 01:41 ID:oLrU5aa1

会社をメンヘルで休職してる女友達が復帰してきた日、
ひどく不安そうにしていた。俺が話し掛けて「俺が
ついてるから、何でも言ってくれ」と言って職場の最新の
資料を渡したら別人のように元気になったなぁ。突然、
周りの人に「私、今日から復帰したんです」なんて挨拶しだし
たりした。笑っちゃったよ。よほど嬉しかったんだろうな。
俺もうれしかったよ。
すぐまた休んじゃったけど、俺は気長に待っているよ。
彼女が昔、俺にモーションかけてきた時、俺は逃げた。
自信がなかったから。当時の俺はメンヘルだったかも?
本当はもっと追っかけて欲しかったのだ。
でも今は逆になったようだ。
今度は俺があきらめずに追いかけるつもりさ。



続報。俺自身が嬉しかったので報告します。

昨日、久々に彼女に電話で話してみた。
彼女、思ったより元気になってた。外出もしてるらしくなかなかつながらない。
「あの時、復帰しようとしたのは無謀だった」と
自虐ジョークを言うほど余裕が出ていた。

「無理しちゃダメだよ。まだ休んでても大丈夫だからね。」
と言ってあげた。
彼女は「5月に復帰するつもりなのでその時によろしくね」
と言ってくれた。ちょっと落ち込んでいた俺はこれで癒された。
正直、彼女に会えないのは辛くてうつになってた俺はこれで生き返った。

彼女は「どうして何度も電話してきたの?」と言ったので
「君の声が聞きたいからさ。ずっと会ってないんだもん」と
甘えて言ったら笑ってくれた。
今回はこの程度。焦りは禁物、気長に気長に(自分に言い聞かせてる)



358 :優しい名無しさん :04/04/23 17:33 ID:WfeT8ERn

「自殺も考えたことが何度もあったけど、そのたびに好奇心が邪魔をしてね。
 世界はどうなっとるんだろうってね。この世の仕組みはなんだろうってね」

しらないおじいさんが言った。泣けた。
おじいさんなだけに、重かった。



360 :優しい名無しさん :04/04/26 19:21 ID:qtq4Qxu8

「神は誰も救わない。自分を救えるのは自分自身だ。お前が死んでも何も
変わらない。だが、お前が生きて変わるものもある」

漫画のセリフ。泣いた。



432 :別スレ186 :04/05/30 22:49 ID:Si4EOA54

大学の心理療法の授業。
出欠カードの裏には授業の感想や質問を書く。
そこに私はこう書いた。
「私はうつ病です。もう私はダメ人間なのではないかと思っています。」
翌週、先生からフィードバック。
「私はずっとダメ人間な人を見たことがありません。」
嬉しかった。少し頑張ろうと思いました。



491 :優しい名無しさん :04/07/15 22:50 ID:mC5epvDZ

一度職場復帰したのに、また休むように成っちゃって、今まで以上に
落ち込みが激しかった時、違う部の部長からメールが来た。

「色々お気遣いいただいてるのにすみません」

って返信したら、

「いいのいいの。みんなお前のこと好きだから」

って返事が来た。ちょっと泣いた。



658 :優しい名無しさん :04/10/20 11:44:25 ID:/FIW+zPF

自殺未遂して意識も数日不明だった。
結局家に帰ってまだ意識が朦朧としてたからかわかんないけど兄ちゃんに全部カミングアウトした。
そしたら兄はお前がリスカしてようが病んでようが、同性愛者だろうがお前はお前や。だから死にたくなったらいつでも俺を頼れ。
って言ってくれた。
その時初めて生きてて良かったと思えた。



816 :優しい名無しさん :05/01/12 19:50:38 ID:LvSN3gCt

当方過食症。
友達に。「吐いてもなんでも 生きててくれるならそれでいい」
こもってて外出れなくて 働けなくて このままだと将来乞食になりそうと
死ぬことしかかんがえられなかったとき 
姉に「お父さんやお母さんがいつか死んだら
お姉ちゃんが 一生あんたを養うから 安心し」
今は私結婚してますが、私が結婚したのを見届けてから姉もしました。
あの瞬間生き抜こうと決めた。
今もつらいときは 姉の言葉を思い出してる



834 :優しい名無しさん :05/02/05 05:36:31 ID:PusH/DmX

人がどうしても信じられなかった時に友達Nが
「居場所は此処にあるよ」って。

私が死にたくてどうしようもない時は、
「死にたくなったらNのベランダから飛び降りよう、みたいな気持ちで突然来てくれて良いから」とか。

私なんか我が儘だしとか言ってたら
「私も我が儘になる!だから私の笑顔の為に生きて」
ボロボロ泣いた。



905 :優しい名無しさん :2005/03/27(日) 00:03:45 ID:sdiv4HVb

鬱で仕事場から一年以上離れてた時、同僚がくれた年賀状の隅に一言…

「待ってますよ」

正月早々号泣した。ありがとう。ありがとう。



946 :優しい名無しさん :2005/04/12(火) 16:21:30 ID:tyogTDhy

昔俺が落ち込んでいた時、当時彼女だったカミさんからの手紙に書いてあったこと。
「男の子が産まれたら、お父さんみたいになりなさいって
女の子が産まれたらお父さんみたいな人を好きになりなさいって言うの」
今はうちの坊主に口癖のように言っている。

10年前はメールじゃなくて手紙だった。
いつもつけている香水を吹いて手紙をくれた。
若い子もやってみるといいよ、きっと喜ぶから。


  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:58Comments(0)泣ける話

2010年02月15日

泣ける話 8 嗚咽

嗚咽 「大人の泪」 より


402 :大人の名無しさん :04/03/09 21:04 ID:v2nfnHc8

Tさん、ごめんな。最後まで、痛かっただろ。
ずっと難病で、それでも笑顔で、がんばったな。
本当に手を尽くしたんだけど、助けてやれなかった。
自分の体より、家においてきた熱帯魚の心配ばっかりして、
家族の心配ばっかりして。
死ぬの怖かっただろう。息子さんの結婚式、出たかっただろう。
本当に、本当に、助けてやれなくてごめん。
情けない主治医でごめん。

何年医者やったって、仲のいい患者に逝かれるとつらい。
ほんと俺向いてないわ。





104 :大人の名無しさん :03/11/09 19:39 ID:GUZYLfW0

小さいころ家の貯金箱をくすねていたのがバレて
母親にボロボロになるまで怒られた。
そのまま部屋に逃げ込み、気がついたらベットにくるまり眠ってた俺。
ふと隣に人の気配を感じた。
母だった。
母は俺が寝ていると思ったのか、自分の頬と俺の小さな頬に合わせながら
「○○、さっきはごめんね。でもあんなこと二度としないでね。~中略~
あなたはお母さんの大事な息子なんだから。」とつぶやいた。
目をつむっていた俺にも母が泣いていることは感じられた。
そして母が去った後、俺は母を二度と泣かせないと子供心に誓った。

でもそれから今日まで、そのときの誓いが必ずしも守られたわけではない。
高校時代はグレ、大学時代は無気力、社会人になっても心配かけっぱなしだった。
5年前は結婚寸前までいった女との別れから拒食気味になり、メシが食えなくなった。
母はそんな俺の分も毎日晩飯を作り、ようやく食べれるようになった時には
小さいころから好きだった特製の餃子を食べきれないほど作ってくれた。
そして俺が黙々と餃子を食べている姿を母は本当に嬉しそうに見つめていた。

ようやくここ2年ほど世間並みに親孝行が出来るようになった。
母の日や誕生日、そして今年還暦を迎えたオヤジへのちゃんちゃんこ(自分のことのように喜んだ)。
なかでも母の個展へ花を贈った際は本当に喜んでくれ、その時の送り状は
今でも大切に保管しているぞとオヤジから聞いた。
1年前に転勤で親元を離れることになった俺が、現地で知り合った今の彼女を声を電話ごしで
聞かせた時には、「○○を宜しく御願いします」と泣きながら彼女に御願いしたと聞いた。
あの時は照れくさいやら恥ずかしいやらで大変だったよ。



105 :大人の名無しさん :03/11/09 19:39 ID:GUZYLfW0

でも元から体が弱く、かつ俺みたいなバカ息子を育てるのが負担になったんだろう。
母は先月循環器系の症状が再発し手術のため入院した。
これまでも何回か同様の手術を受けたことがあるんだけど、オヤジによると
「今回の手術が成功しても、今後どうなることかは見通しがつかない」とのこと。
俺は生まれて初めて母に手紙を書き、それをオヤジに手渡した。
日頃感情を表に出さないオヤジが「手術前に母さんに読んで聞かせたら泣いて喜んでたぞ。
ありがとう。」と手術後電話があった。幸いなことに手術は成功だったらしい。
でも中長期的には予断は許さないことには変わりない。

ところで母さん、オヤジ、あの時は伝えていなかったけど、俺ちょっとやっかいな病気にかかっているんだ。
ここ数ヶ月自分の体調の悪化が日に日に感じられ、この間勇気を振り絞って検査に行ったところ
残念な答が返ってきた。
親不孝になりたくないから母さんより先に逝くつもりはないよ。だから俺のためにも長生きして下さい。
ただオヤジの死に目に見れるか正直自信ありません。でもできるだけ長生きして下さい。
彼女にはさっき伝えました。「なんで黙ってたの?」と泣きながら怒鳴られました。
俺もこれから自分の体を治すためあきらめずに努力していきます。
これから寒くなるでしょうから、くれぐれもご自愛を。
正月には母さんとオヤジの元気な顔を見れることを楽しみにしています。





417 :大人の名無しさん :04/03/12 11:04 ID:hjrN6XGo

>>402さん

私は子供を亡くしてしまいました。
総合病院に運ばれて、足が浮腫むほど点滴をいっぱいして。
助かりませんでした

主人が泣いて泣いて…
「あいつら、本当にちゃんと見てたんかい!!」と
担当して下さった先生方に、意味のない怒りをぶつけてました

病院から子供を連れて帰るときに、病院のみなさんがお焼香して下さいました
その時に、担当して下さった小児科の副部長さんが泣いておられて
それを見た主人が
「他人なのに、泣いてくれて…一生懸命してもらったよな…」って

医者もやはり人間ですから、辛い時はどうぞ泣いてください。

とある本に
「難病に立ち向かうというのは、土俵でじわじわと端に押しやられていくようなもの」
「大きな力で、こちらをじわじわと攻めて来る」
と、医者の立場で、書かれていました。
きっと402さんも、そんな辛い思いをなさっていたと思います

これからも、さまざまな難病があなたを待ち受けると思いますが
どうか、あなたを頼って来る患者のために、立ち向かってください。

そして、辛い時は、思いっきり泣いて下さい。





43 :大人の名無しさん :03/10/26 00:41 ID:GSm5zTE2

4年ほど前に本社より地方支店に左遷同様で転勤してきた同僚の彼。
事務の女の子に手が早いだの、上司に対して生意気で飛ばされて等、前評判はけして良くありませんでした。

でもいざ着任して同僚として付き合ってみると180度印象が変わりました。
自分を頼ってくる人間には親身になって向き合い、そうでない人に対しても礼節を忘れない
とでもいうのでしょうか、上司にも言うべきことはガツンと言うし。
何より仕事に対して誠実で、慣れない土地での営業成績も上々でした。
それに全国色々な支店の人が「○○ちゃん、ちゃんと仕事してる(笑)?」だの
「○○さんに今度のスキーツアー参加して下さい(はあと)、と伝えて置いて下さい」とか
連絡が途絶えることもなく、私たち女の子の間でも「彼って人気者だね(笑)」と株高騰でした。
そして転勤後半年経つころには彼に憧れの様な感情を抱く様になりました。

そんなある日の夕方。彼がいつになく緊張した面持ちで営業より帰社してきました。
その日は支店の飲み会の日で、時間も差し迫っていたので、「早く用意して行こうよ」と声を
掛けたのですが、「ゴメン。お客さんから電話入るんで先盛り上げといて~」との返答。
私はいったん会場に向かったのですが、すぐに会費をまとめた封筒を忘れたことに気付き
社に戻りました。遠巻きに彼は電話中でしたが「ありがとうございました!全身全霊で
やらせていただきます」と電話を切り、私の気配を感じることなく号泣し始めました。
「やった!遂にやった!」とか泣き笑いながら。

私はなんとなく顔を合わせない様に会場に戻ったのですが、どうしても気になったので
2次会になってようやく現れた彼に「何かいいことあったの?」と聞きました。
彼は一瞬驚き、「なんや見てたん?実は前から狙ってた仕事が決まったんよ。
でも小さい仕事だから誰にも言わんといて」と少しはにかんだ表情で答えました。
営業成績が優秀な彼でもそんなことあるんだな~と思いつつも、その日は自分のことのように
嬉しく感じ、その後彼を3次会までつれ回すことに成功し(笑)ホロ酔い気分で帰宅しました。

その日初めて彼に恋していることに気付きました。



44 :大人の名無しさん :03/10/26 00:43 ID:GSm5zTE2

後になって人づてに聞いたのですが、その仕事(企画)は彼が本社にいる時に進めていた企画だったそうです。

周囲に理解者は多く受注間際までいったのですが、突然上司の猛反対に合い頓挫。
それまで上司との関係は極めて良好だったそうですが、どうしても納得できなかったらしく
クビ覚悟の大喧嘩となり、結果地方支店に左遷が異動の真相でした。

その後は順調な日々でした。
前述のとおり最初は小さな仕事だったその企画も、その後の彼の営業努力、全国の支店の仲間の協力、
何より本社勤務当時の上司の強力な後ろ盾もあり全社的なプロジェクトに発展するに至りました。
また本社当時の上司はけして彼が憎くて左遷したのではありませんでした。
ただ経験も足りないのに過度に熱くなっている彼に「少し冷静になれ」の意味もこめ企画を保留したようでした。
しかし左遷後も企画を捨てずに採算性などをを再検討し結果を出した彼に感じいるところがあったのでしょう。

私もその後は彼のプロジェクト専任の事務として、彼の仕事を末端からヘルプできるようになりました。
私生活でも何となく彼の傍に置いてもらえる様にはなったのかな~、告白しようとするとその都度交わされはしていたのですが(笑)
少しづつ距離が縮まっていたと思います。彼がこちらに来て2回目のクリスマスイブは一緒に過ごしました。

でも順調だったのはそこまででした。

プロジェクトも軌道に乗り始めたある日彼は突然倒れました。
入院中は本人の希望で一度も逢うことができませんでした。
私はそのことが残念でしたが、かといって面会してもどう声を掛けられるか自信もありませんでした。
病状が末期的なことは彼の御家族から聞かされていましたので。
そしてその後出社することなく入院して2ヶ月後この世を去りました。
あるいは本人は以前から気付いてはいたのでしょう。
でもけして打ち明けたくはなかったのでしょう。それを思うと今でもやりきれない気分になります。
そういえば倒れる数ヶ月前に顔色が悪そうだった彼に「体調悪いの?気をつけてよ。」て聞いたことがありました。
彼は「いや。少し疲れているだけやけど(苦笑」と答えましたが、今から思うと少し複雑な表情をしていました。



45 :大人の名無しさん :03/10/26 00:43 ID:GSm5zTE2

彼が亡くなってから、私は感情を表に出せなくなりました。

お葬式の時も周囲すすり泣く声が漏れる中、涙一滴出てこなかった。
あんなに好きだったのに、多分私を一番信頼してくれてたはずなのに、大事なことは相談せずに一人で逝ってしまった。
そのことに悔しさを感じたからかもしれない。一番つらかったのは他ならない彼なのに。

お葬式が終わりしばらくしたある日曜日彼のお母様が私を訪ねてきました。
そしてまず手紙を、その後少し迷われましたが彼の日記を渡されました。
そして「お見舞い断わったことを許してね」と頭を下げ帰られました。手紙には

「××へ。ゴメン。
 俺ダメかもしれんわ。
 言いたかったし言うべきだったろうけど、でもかっこ悪いところ見せたくなかったんよ。
 わかってな。
 愛してます。
 早くいい男見つけてな。」

と書かれていました。見覚えのあるはっきりとした字でした。
日記は書き殴った字体でしたが「痛い。痛い。なんで」「早く治して××を抱きたい。」、そして古い日記には
「××に泣いてるところ見られてしまった。カッコ悪~、でもまぁええか。」と。

そこからは読めませんでした。涙が止まりませんでした。
ボールペンで書かれたただでさえ乱暴な字体で書かれた彼の日記は私の涙で滲みボロボロになりましたが、
私はそれから手を離すことはできませんでした。その日はいつ眠ったのか記憶がありません。

私はようやく彼を失ったことを実感しました。


今日彼と同じ歳になりました。
久々に彼の手紙や日記を読み返してみて、やっぱりこのまま塞ぎこんでてはいけないと思いました。
自分勝手かもしれないけど、彼もこんな無様な私を望んでいないでしょう。多分怒っていると思う。
今は相手もいないし、これから見つかる保証もないけど(苦笑)前に向いていかなくっちゃ。
スレ違いホントごめんなさい。誰かに決意表明したかったんです。
今日から頑張ります。





458 :大人の名無しさん :04/03/17 21:00 ID:m2jDR+X0

すごく亀レスですが、402の医者です。
忙しくてここ覗く暇なくて、今日やっと見てみたら、皆さんの
暖かいメッセージで、胸がいっぱいで、また泣いてしまった。
皆さんみたいに考えてくださる人々がいる限り、俺は頑張ります。
いつか俺が死んだ時、仲良かった患者さんたちに胸張って会えるように。

2ch見ててよかったです。ありがとう。

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:57Comments(0)泣ける話

2010年02月12日

泣ける話 9 父親編

330 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/17(土) 22:05:08 ID:yX0VN6j+

今日一日早く父の日のプレゼントが実家に届いたらしい。
俺は事前に何にも言ってなかったし、今まであげたこともなかった。
けどこのスレ(をまとめたブログだけど)見ててあげようと思った。

品は親父様の好きなビール。
それもベルギーの地ビールとかいう普段はあまり呑まなさそうなの。
俺は成人はしてるがアルコール類さっぱりなのでそれが旨いのか不味いのかわからずに送るよう手配したのだが、それで今日電話があった。

「何?」(用件は判ってたがちょっと恥ずかしかった
「あのさ、ええと、ありがと。ビール」(親父も照れくさそう
「ああ、うん。旨かった?」
と聞いた瞬間照れくささが吹っ飛んだのか、電話の向こうで絶対(´∀`) みたいな顔して語りだした。
「美味いよ! いやーやっぱり地ビールだから独特の味がね…」
その口調が非常に珍しく電話越しにも浮かれているのが判って萌えたんだが、
「昼ごろ荷物来たんだけどさ、お母さんが勝手に開けちゃってさ、もー俺にきた荷物なのに勝手にあけちゃってさ」
とか語りだして、電話の向こうでオカンも
「おとーさんほとんど一人で飲んだじゃない!」とか言ってるの聞こえて更に萌え。

でも、「……お前と一緒に呑みたかったなあ」と言われてトドメのようにキュンときた。
あと何年かして呑めるようになったら、呑もう。
何ならそのベルギービールもう一度買うたるから。
何度も何度も「ありがと」って言われた。
思えば多分二十何年一度もあげてなかったもんな。



393 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/23(金) 14:37:37 ID:O7iQY3zM

二年前に母を亡くした我が家は娘二人と父の3人暮らし。
父は最近やっと一人でコンビニへ行けるようになった。

ある朝起きるとテーブルの上に菓子パン二つと
「食ってよし」のメモ一枚が置かれていた。
私も妹も全然好みじゃないすごいカロリー過多なパンだったけど、
仕事ばかりで全然父親らしいことをしない父のその行動に驚いた。

起きてきた父に「誰かがパン買ってきてくれてる!」と大げさに言うと
父は猫を抱き上げて「こいつが買って来たんだろ」と言った。
みんなでにやにやした。



417 :おさかなくわえた名無しさん :2006/06/26(月) 12:44:02 ID:RNK07K8i

先日私が二人目を妊娠している事が判り、早速実家に電話。

最初に出たのは父だったのだけど、
「そういう事はお母さんに言いなさい」
と、すぐに母に代わってしまった。

おめでとうくらい言って欲しかったなー(´・ω・`)
と思いながら母と話をしていたら、物凄い物音が。
どうやら長男が生まれた時に買った椅子などを取り出そうと
廊下の物置を開けて雪崩を起こしたらしい。

…夏に帰省する時にはまだまだお腹の中ですよ、パパン。



575 :おさかなくわえた名無しさん :2006/07/20(木) 11:11:41 ID:FnOoINE8

私が中学生くらいのころ、父が指に包帯巻いて帰ってきた。
私「どーしたのその指?」
父「ちょっと…ドアに挟んだ」
私「ふーん」
父はいわゆる頑固父。当時は年齢的にもあんまり父と話さなかった。
その数週間後、父の会社の部下が家に菓子折り持って訪ねてきた。
なんでもその部下が何かの病気の発作がおき
下手したら自分で舌を噛み切ってしまうので父がとっさに自分の指を噛ませたらしい。
で一命をとりとめたと。

そのとき父が誇らしく見えました。
今でも傷跡がはっきりと残ってます。
そんなこんなで今は父と仲いいです。無口で無骨なとこは相変わらずですが。



591 :おさかなくわえた名無しさん :2006/07/21(金) 19:49:37 ID:xPwDAKvr

高校生の頃、生まれて初めて渡した父の日のプレゼントは
センスのないポプリと素直になりきれなくてひねくれた感じの感謝の手紙。

父「お父さんこんなもの使わないよ(`・ω・´)」
私は腹立って部屋にこもった。
暫くしてそっと部屋の襖を開けると、手紙を読みながらプルプル震える父の背中。
時々 ぐすっぐすっと鼻をすする音がしてた。

もうポプリの匂いはないけれどお母さんの仏壇に飾ってある。



708 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/02(水) 01:29:38 ID:DXBRv2tF

普段口数が少なく、厳格な父。

私の結婚が決まった時、私達が挨拶に行く前に、母が父にそのコトを伝えた。
すると食べていたご飯を途中で全部残し
「風呂に入る」と言って風呂に行ってしまったまましばらく出てこなかったので、心配した母がコッソリ風呂場にいくと父が泣いていたらしい。
そして何事もなかったかのように振る舞い、「もう寝る」と布団にもぐりまた泣いていたらしい…。

パパン…



751 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/07(月) 19:09:32 ID:ft6+re0v

私が小学生クリスマス前後の時の話です。

いつもは厳しく、テストで良い点をとっても誉めてくれなかった父。
ホントに怖くて、いたずらをして夜外に出されたこともあり父が苦手でした。
そんなある日、学校帰りに、父がおもちゃ屋に入っていくのを見つけ、つけていくと小学生の女の子が好きそうな、おもちゃを手に眉間に皺を寄せる父。
考え込んでは近くにいる店員さんに何か話しかけ、たまに近くにきた私と同い年の子と話をしたりしていました。

父が帰った後、店員さんに、それとなく聞くと父は毎日、来てはクリスマスのプレゼントを吟味しているとのこと。
翌日も張っているときました。その次の日も、クリスマスイブまで毎日、考えていました。



752 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/07(月) 19:22:51 ID:ft6+re0v

思えば、父は毎日同じ時間に帰宅する人だったのに、ある時から急に遅くなりました。
それは、おもちゃ屋通いが始まってからです。
あんな堅物な父がと、当時はとても嬉しかったです。

クリスマス翌日、「サンタさんからプレゼントはあったか?」と聞く父に、
ニヤニヤしながら「サンタさんは〇〇〇屋で買ったんだよね、一ヶ月前に日本に来て、下見してから」
と言うと、 Σ( ̄□ ̄;)!!な顔をしていました。

もう、そろそろ父が逝って3回目の夏がきます。
懐かしくて書き込んでしまいました。



770 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/08(火) 07:29:09 ID:a+/am+Yj

私は父子家庭だから、離れて暮らしている今、父親の家にご飯を作りにいく。
きんぴらゴボウやひじきは小分けして冷凍して帰ってくる。
次回行ったら、いつも全て一個ずつ残ってる。
その日用に作ったサラダも、5日は保たせてちょびっとずつ食べてる。
行くたびに、「お父さんの事はいいから。自分の事だけ考えなさい。三番目くらいに思い出してくれたらいいから(=^▽^=)」と笑う。
でも私が作るご飯が一番おいしいと言い、いつも食べ過ぎてる。
ちゃんとまたすぐ作りに行くから、全部食べきっていいんだよ。(^-^)
なくなるのが寂しいみたい(´・ω・`)



895 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/16(水) 22:48:39 ID:xVX9ydWw

高校生の頃、母親の再婚した相手(義父)と喧嘩ばっかしてて、むしゃくしゃして
ちょっとした悪さをしていた時期があった。

で、それが義父にバレて1ヶ月ほど家を追い出された事があったんだけど
他に行くあてが無い私を、母親がみかねて別れた父親に連絡をとり
その父親の家で面倒見てもらうことになった。

当時の私には家を追い出された事がとってもショックで
実の父が迎えにきた車に乗った途端、号泣してしまったことがあった。
私が号泣してんの見て、父が運転しながらおろおろしてたのを未だに覚えている。

父の家に行ってから3日後。
私はバイトが休みだったので家に居たら、夜になって父が帰ってきた。
スーパーの袋に何故か猫缶。
左手に抱きかかえてたのは、なんと仔猫。しかもアメショー。

猫なんて飼えないアパートなのに、私を元気にしようと友人が里親募集してるのを
聞いてすぐさま貰ってきたらしい。

もちろん、「私を元気づけようと」なんて父は口が重い人だから言わないけど
あれから数年経って、やっとあの時の父の気持ちがわかるようになった。

最近あってないなぁ…



903 :おさかなくわえた名無しさん :2006/08/17(木) 01:21:54 ID:x2MvhAQm

お嫁に行く事になった。
結婚式場に向かう為に家を出る時、父が一つの小さな紙袋を渡してくれた。

「式場についたらあけなさい」

なんだろう?と不思議に思い式場につき、開けてみた。
お弁当だった。

小学生入学後初めての遠足の時、
母親は妹弟(双子)のお産の為入院してた。
祖母がお弁当を作ってくれるんだろうなって思ってたら、
普段は全く炊事をしない父が作ってくれた。

不器用な父が作ってくれたお弁当は、
卵焼きが焦げてたり、おにぎりの具がはみだしてたり、
不格好ながら、とっても嬉しかった。

お弁当の中身はあの時と一緒だった。

母に聞いたら、私が喜んだ事が嬉しくて、
お嫁に行く時に渡す!と練習してたそうだ。

ちょっと甘い卵焼き、あの時より綺麗に焼きあがってた。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:06Comments(0)泣ける話

2010年02月12日

泣ける話 8 家庭の味

No.529 (*`Д´)家族との思い出の味(´Д`*) より


85 :もぐもぐ名無しさん :03/06/27 08:25

俺が中学ぐらいの時、両親の仲が悪くて、俺もひねくれてて
みんなぎくしゃくして、家の中がすごい荒れてた
どんくらい荒れてたか今じゃわからない
その時の食事風景の記憶が怖いぐらいないんだよ
ただうっすら覚えてるのは会話が無かったことぐらい
親父が塩とってって言ってもみんな無視
ずっとこんな感じだったんだと思う

そんな時期に、幼馴染の家に呼ばれて晩飯食べにいった
その時のことがすごい印象に残ってるんだ
友達のおっちゃんが冗談言って、おばちゃんとか友達とかがつっこんで、笑って。
俺も一緒に冗談いったりして、すごい楽しかった
そんでさ、晩御飯食べ終わってもみんなテーブル囲んで座ってるんだよ
本当に楽しかった。

その後、自転車漕いで家に帰ったら、やっぱり親父とお袋の間の空気おかしくて
自分の部屋行ってから、耐え切れずに泣いちゃった
なんで、そうなんだよって呟いてたの今でも覚えてる

一番悲しかったさ



312 :もぐもぐ名無しさん :03/08/28 04:06

私が幼い頃に両親が離婚して、今は母親と2人暮らし。
母が1週間に1度取れる休みの日だった。
しかしその日は高校見学で、午前中は高校に、
そして午後は友人と突然決めた遊びの約束。帰りは7時頃になった。

テーブルには冷めた野菜炒めがあって、母はそれに口をつけず、私の帰りを待っていてくれた。
普段仕事のある日は朝と夜しか顔を合わせる事が無いので、
休みの日はできるだけ一緒にいようと決意した矢先、母に少なからずも寂しい思いをさせてしまった。
2人でその野菜炒め、ご飯、味噌汁を食べながら
その日にあった出来事を話していると、泣きそうになってしまった。
我慢して我慢して、必死に涙を堪え、面白おかしく喋った。

夕飯を食べ終えた後も、いつもの自分でいることができた。
自分が泣いている姿を母に見せずに済んだ。
つい最近の、よくあることだけど
一生忘れないと思える、冷たいけど美味しい野菜炒めだった。

私立の高校に行きたいなんてわがまま言ってごめんね、今までも散々わがまま言ってきたのに。
大人になったらいっぱい働いて、絶対親孝行するから。

これ打ってる途中で泣いてしまった。長文失礼致しました



90 :もぐもぐ名無しさん :03/07/06 12:05

俺が小さい頃、貧乏だったので中流家庭で食べるような物がご馳走だったよ。
ハンバーグ、焼肉、ケーキ等は何かのイベントの時だけ食べさせてもらえた。
友達の家で初めて手作りピザを食べて、家でも作ってくれってダダこねたら、
母ちゃんは料理の本見ながら、冷蔵庫にある材料でピザ作ってくれた。

キノコの代わりに椎茸、家庭菜園で作ったトマト、生ハムのかわりに薄切りハム。
給食の残りで貰ったチーズ。生地は小麦粉と塩を水で練ってフライパンで焼いた。
少し焼いた生地を持ちやすい大きさにカットしてその上に具をのせてオーブントースターで焼いた。
出来上がった頃に毎日のようにやっている夫婦喧嘩が始まり、なんだか悲しい気持ちでそのピザを食べた。
せっかく楽しい気持ちだったのにって泣きながら食べたのを覚えてる。
楽しい家族団欒を見ると、羨ましいと今でも思う。



440 :もぐもぐ名無しさん :03/10/19 16:28

私がまだ学生だった頃、父は突然会社を辞めて、自営を始めて家にいたんだよね。
その頃は私も反抗期の終わりかけで、勝手に会社を辞めてずっと家にいる父が鬱陶しくて無視したりしてた。
母は遅くまで外で働いていたので、夕食は父が作ったり、私が作ったりでいつも2人で食べてた。
でも、反抗期だったのもあって、父が作ってくれた夕食も、わざと時間をずらして食べたり、
階下にいる父が「○○〜玉子焼き食べるか〜?」とか「味噌汁飲むか〜?」
なんて声かけるたび「いらない。」なんて答えてた。
父は玉子焼きが大好きで、自分でも良く作ってた。正直、その玉子焼きは美味しかった。

父はその後、自殺した。興した会社がうまくいかず、すごい借金抱えて悩んでいたんだと思う。
でも、私はもちろん母さえも、事業がうまくいっていないと気づかなかった。
今思えば、会社を突然辞めたのだってリストラされたんだと思う。
父は私たちに気づかせないようにしながら一人で悩んで逝ってしまった。

今思うと、あの時の玉子焼き、ちゃんと食べておけば良かったと思う。
しばらくは階下から「○○〜玉子焼き食べるか〜?」って声が聞こえるような気がして
自分の行動を悔やんだ。

今ではそれはもう思い出だけど、夫に「玉子焼き焼くの上手いね」と言われる度に
「うちの父の焼く玉子焼きはもっと美味しかったよ。」と答えて、ちょっと泣きそうになったりする。



490 :もぐもぐ名無しさん :03/11/06 15:38

家庭の味ではないけど。
母が風邪で寝込んでいた時に、母の好物のうめぼしおにぎりを作ってあげた。
翌日、母が「おにぎりのお礼に、たこ焼き買っておいたよ!」
保温の為でしょう、そのたこ焼きは炬燵の中に入っておりました。
おかーさん、タコが変な味するよう!
口直しにコンビニでたこ焼きを買ってきて、母と二人で笑って食べました。

翌日の夜、母は40代の若さで脳梗塞で亡くなりました。
たこやきは、母から、私からの最後のおやつになりました。
今、子供がたこ焼きを食べたがるたびに思い出します。



768 :もぐもぐ名無しさん :04/01/31 23:17

ある夜、大量のお刺身が夕飯のテーブルに並んだ。
普段よりもずっとずっと多くて、「なんじゃこりゃ」って思った。
母が「お父さんが買ってきたのよ」って言って、食事ははじまった。
そのころは父とご飯を食べるなんて、もうなかった。
自分でも、もううちの両親はだめだろうって思ってたころだったし。

案の定、両親は離婚して。

でもさ、父ちゃん。
いなくなるならいなくなるって、そう言ってよ。
お刺身の次の日、父の荷物が根こそぎなかった。

何も言わずにいなくなるなんてずるい。
お刺身買って来てくれてありがとう、だって伝えてないのに。
その日の夕飯は、私の忘れられない食事になった。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの)  at 23:04Comments(0)泣ける話

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アマミちゃん(野崎りの)
アマミちゃん(野崎りの)
小さい頃の夢はマザーテレサとジャンヌダルクでした。
あれから20数年、今では立派なメタボとなりました。